MIU404長編

□六話
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部屋に来てみて改めて思った。
彼と事故前の私は本当に付き合っていたのだ、と。
疑っていた訳ではないけれど、何となく現実味がなくて。

しかし部屋の中を見渡すと二つ並んだ枕や歯ブラシ、彼の衣類が入っているチェスト、彼が飲む為に買ったと思われるアルコール類。
部屋の中に当たり前のようにあるところを目にしてようやく実感した。

ただ、私が退院してから彼がそれを使うことはなくて。
彼が休みの日、朝9時に『おはよ』とやって来て夜8時に『おやすみ』と帰っていく。
記憶を失くした私のフォローをする為、と毎日のようにやって来てアパート周辺のスーパーや駅、本屋などたくさん案内をしてくれて。

今日は、



「桜月ちゃん、準備オッケー?」
「はいっ、」
「そんな緊張しなくていいって、自分の家行くだけなんだし」
「……ごめんなさい」
「謝るのもなーし!」
「ごめんなさ……あ、」
「そういうとこ変わんねーなぁ」



体調もだいぶ戻って、歩行も違和感がなくなった。
そろそろいいかな、と呟いた伊吹さんに提案された。
奥多摩、私の実家があると言われている場所。
今日はそこへ行ってみよう、と。

電車に揺られて二時間半はかかると言われた。
目に入る外の景色が流れていくことも苦ではなく、都心から少しずつ緑が多くなっていくことに気持ちが安らぐのは故郷がこちらだからなのだろうか。



「大丈夫?疲れてない?」
「ありがとうございます、大丈夫です」



隣に座る伊吹さんが5分おきに声をかけてくれる。
その声も、電車の揺れも心地良くて、少しうとうとして一瞬舟を漕いでしまった。
そんな私に気づいた彼が少し笑って自分の肩を叩いた。



「この後もう乗り換えないし、寄っかかってていいよ?」
「すみません……」



伊吹さんの言葉に有り難く肩をお借りすれば、彼がぽつりと何か呟いた気がしたけれど目を開けていられなくて束の間の休息に意識を委ねた。











































「桜月ちゃん、もうすぐ着くよ」
「ん……あ、はい。ごめんなさい、すっかり寝ちゃってた……」
「うん、ちょー気持ち良さそうに寝てた」
「っ、」



からかうような口調に顔に熱が集まるのが分かる。
だって、電車の揺れも彼の肩から伝わる温もりも心地良くて。
自分がこんなにも無防備に寝顔を晒すなんて思ってもみなかった。



「ごめんごめん、寝顔可愛かったからさ」
「可愛くないです……」



彼の持ち前の人懐っこさで伊吹さんとの距離はだいぶ縮まったと思う。
それでも彼から触れられたことは入院中に頭を撫でられた時と、退院した日に手を重ねられたあの時だけ。
志摩さんとじゃれている時は気軽にボディタッチをしているところを見ると、元々スキンシップの激しい人だとは思うけれど……。



「桜月ちゃん?」
「あ……すみません、ぼーっとしちゃって……」
「疲れた?休憩する?」
「いえ……大丈夫です」
「駅のすぐ近くだから、家でゆっくりしよっか」
「はい……」



奥多摩の駅に着いて、歩いて10分もしないうちに家に着いた。
家の裏側には駐在所と呼ばれるような交番がある。
今はパトロール中なのかお巡りさんは不在のようだ。



「そこね、俺が前いた交番〜」
「え、そうなんですか?」
「そうなんです〜。はい、ただいま〜」
「ただ、いま……?」



伊吹さんが鍵を開けて、玄関の引き戸を開けてくれた。
平屋造りのこぢんまりとした家。
どこか懐かしい感じがする。



「最近、風通し来れなかったからちょうど良かったよ」
「伊吹さんがいつも来てくださっていたんですか?」
「ん?二人で来たり俺一人だったり?
この家に一人は嫌だって前に言ってたからさ」
「そう、ですか……」



何てことのないように言うけれど、アパートから二時間半もかかる場所までわざわざ風通しに来てくれていた、と思うと申し訳なさがこみ上げる。
先に玄関をくぐった彼が不思議そうに首を傾げている。



「ん?」
「あ、いえ……」



彼の視線に促されて同様に玄関をくぐれば、確かに閉め切っていた室内特有のどこか淀んだ空気。
やっぱそうだよなぁ、と苦く笑った伊吹さんが玄関に近い部屋から一つずつ雨戸を開けて行く。
彼の後に続いて家の奥へと進んでいけば、少しずつ明るくなっていく室内に目がチカチカする。

一番奥の部屋まで来て、伊吹さんが雨戸を開けるとそこは仏間で。
仏壇の前に小さな写真が3つ並んでいる。
部屋の入口から先に進めずにいたら、それに気づいた伊吹さんにおいで、と手招きされて仏壇の前に座る彼の隣にそっと膝をつく。



「こっちの二人で写ってるのがお父さんとお母さん。
で、こっちの難しい顔してんのがおやっさん、桜月ちゃんのおじいちゃん。
こっちの優しく笑ってんのが由布子さん、桜月ちゃんのおばあちゃん」
「………」



蝋燭に火を灯して線香をあげながら、どこか懐かしそうな伊吹さんの表情。
この線香の香り、寂しい気持ちになるのはどうしてだろう。
そんな私を余所に祖父母のこと、伊吹さんと初めて会った日のこと、大学受験の時のこと、少しずつ話し始めてくれた。



「おやっさんと由布子さんのことは知ってるけど、お父さんとお母さんのことは俺、あんま知らないんだ」
「そう、ですか……」
「あ、一回だけ。由布子さんが亡くなった後に桜月から聞いたことあるわ。
お父さんは桜月に甘くて、お母さんは怒ると怖かったって」



伊吹さんがアルバムを引っ張り出して来て、ページを捲った後で開きながら私の膝にアルバムが乗せてきた。
ほらここ、と指差された写真は遺影の写真と同じ顔の夫婦が写った写真。
二人の間には幼い頃の私と思われる小さな女の子。
これは動物園だろうか。
とても楽しそうに笑っている。



「おやっさんも、由布子さんも、桜月のことがめちゃめちゃ可愛くて、めちゃめちゃ大事にしてたよ」



これ、とまた別なアルバムを開いて見せられたのは振り袖姿の私と、祖父母が写っている写真。
何とも硬い表情の私と祖父、それと可愛らしい笑顔の祖母。



「おやっさんね、口煩く桜月に色々言ってたけど、めちゃめちゃ可愛がってたんだよ」
「おじいちゃん……おばあちゃん……」



写真を指先でなぞる。
この家に来てから少しずつ膨らんできた、寂しいという気持ち。
誰もいない家がそうさせているのだろうか。

祖父母と振り袖姿の私が写る写真の隣には満面の笑みの伊吹さんと私の写真。
正装した伊吹さんと振り袖姿の私。
これはどういう状況なんだろう。



「これね、何枚写真撮っても表情硬いからって由布子さんが俺と一緒に撮ったらって」
「凄い、笑ってますね」
「ん、ちょー良い顔」



この笑顔を見るだけでも分かる、私にとって彼は大切な存在だったということ。

アルバムのページを捲れば、この後にも伊吹さんが写る写真はたくさんあって。
それだけ彼の存在はいつでも隣にあったということの証明になる。



「……あの、」
「ん?」
「伊吹さんと、私はどのくらい付き合っているんですか?
知り合ってからは10年って聞きましたけど……」
「んー……4年くらい?」



ちなみに成人式の日の夜に俺が初めて好きだって言ったらめちゃめちゃ驚いてた、と何てことのないように話す。
覚えていない、彼との思い出。



「伊吹さん」
「うん?」
「私、伊吹さんのこと利用してませんか?
付き合っていたからと言っても、私は何も覚えていないのに……事故に遭ってからずっと迷惑ばかりかけて……」



ずっと引っかかっていた。
私は彼からの好意を利用しているのではないか、と。
彼から与えられるばかりで私は何も返せないのに。



「そういうとこ……」
「え?」
「記憶が無くても、そういうとこはやっぱり桜月なんだよなぁ……」
「伊吹、さん……?」
「そこ気にして別な奴頼られるより、記憶無くても俺を頼りにしてくれる方が全然良いよ」



だから今まで通りで全然オッケー!とこともなげに笑う伊吹さんの笑顔が、どこか痛みを堪えているように見えて。

記憶を無くす前の私なら何とかできたのかもしれない。
けれど今の私にはどうすることもできなくて。



「ごめん、なさい……」



泣いたところで何の問題解決にもならないことは分かっている。
ただ、目の前にいる優しい彼を困らせるだけだということも分かっている。
それでも零れ落ちる涙を堪えることはできなくて。

ふわりと包まれた温もりに、涙が溢れるのを止めることができなくなった。






















































「……落ち着いた?」
「すみません、大丈夫です……」



どのくらいこうしていたのだろう。
嗚咽が止まって、気持ちも落ち着いてきた頃を見計らったように優しく声をかけてくれた伊吹さん。
本当に、この人はどれだけ器が大きいんだろう。

彼の肩から顔を上げれば、私の涙でしっとりと濡れてしまった彼の肩口が目に入る。
そっとそれに触れて今日何度目かの謝罪を口にすれば、気にしなくていいよ、と笑う彼。
そうやって笑いながら私の頭を撫でる手はどこまでも優しい。



「ん?」
「いえ……」
「そうだ、桜月ちゃん疲れた?」
「え?いえ、大丈夫ですけど……」
「んふふ、じゃあちょっとお出かけしよっか」
「え?」



今日の目的は実家に来ることだけではなかったのか。
急に何か思いついたような伊吹さんは何故か物凄く楽しそうで。
その笑顔に首を傾げるしかできなかった


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