MIU404長編

□八話
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伊吹さんへの好意を自覚したあの日から、彼と真正面に向き合うことができずにいた。
自分でも分かる、不自然すぎる態度をとってしまっていることは。
それに勘の良い彼のことだから、間違いなく私の異変にも気づいているはず。
それでも、そこには触れずにこれまで通り関わろうとしてくれている伊吹さんには感謝しかない。

今日は彼の当番勤務日で顔を合わせることがない。
アパート周辺の地理も覚えてきたことだし、図書館に行って記憶喪失に関する本を借りたり、散歩に出かけて血行を良くして脳の活性化を促したりしようか、なんて考えていたら充電器に差しっぱなしだったスマホからLIMEの通知音。

開いてみればハムちゃんからの食事のお誘いだった。
『忙しくなかったら一緒にどう?』なんて彼女の人となりを表したような言い方。
事故で記憶を無くしてから仕事は休職中。
予定と言えば散歩に行くか、伊吹さんと記憶探しの旅に出かけるかくらいしかなくて、他は日がな一日家でぼんやりしているかしかしてない人間が忙しいはずなんてないのに。
『私で良ければ是非』と返信をして、今日の予定は決定。








































「お待たせ、ごめんね〜」
「ううん、私もさっき来たところ」
「じゃあ行こっか」



ハムちゃんとは退院してから伊吹さんが仕事の日に何度か出かけたり部屋に遊びに来てもらったりしている。
最初のうちこそ、また頭痛が起こるのではないかと不安もあったけれど、そんなことは起こらず寧ろ居心地の良ささえ感じていた。
これもまた彼女との付き合いの深さを体が覚えているからなのだろうか。
脳は覚えていないのに体は覚えているだなんて、不思議な現象だとつくづく思う。

ちなみに彼女が同居している桔梗さん、その息子のゆたかくん、そして陣馬さんと九重さんには退院してから桔梗さんの家で快気祝いと称した飲み会を開いてもらった時にお会いした。
やはり覚えていないけれど、皆温かく迎えてくれて。
ゆたかくんには寂しい思いをさせてしまったかもしれないけれど、伊吹さんと志摩さん、そしてハムちゃんが上手く取り持ってくれたお陰で最後には『また来てね』と言ってもらえるほどになっていた。



「その後何か変化はあった?」
「うーん……相変わらず何も思い出さない、かな……たまに、断片的にだけど急に光景が過るんだけど、そこから何かに繋がることはないんだよね」
「そう……」



今日はハムちゃんが同僚に教えてもらったという美味しいパスタのお店へ。
ボロネーゼとカルボナーラをそれぞれで頼んで、少量ずつシェアして食べている。
会う度に聞かれる、直近の状態。
当然と言えば当然のことだろう。
伊吹さん程ではないと思うけれど、彼女だって私の記憶が戻ることを願っていることは間違いない。



「……あっ、でも……あー……」
「うん?どうかした?」
「進展というか……その、気づいたことがあるっていうか……」
「何?どうしたの?」



事故以前の私を知っている彼女になら話してもいいのかもしれない。
寧ろ、この状況でこんな内容を話せる相手はきっとハムちゃんか志摩さんくらいで。
流石に男性相手に話す内容ではないとは思う。
消去法ではないにしてもハムちゃんが適任というか何というか。



「いや……その、私、伊吹さんのこと好きなのかな、って」
「何だ、そんなこと」
「そんなことってハムちゃん……私には結構重大なことなんだけど」



パスタを口に運びながら何を今更と言わんばかりの彼女の言い方に少々面食らう。
彼女からしてみればこういうことらしい。

脳が覚えていないにしても、体は彼を覚えていて、そんな状態で彼と出かけたり一緒に過ごしたりしているうちに彼に惹かれるのは当たり前のこと。
元々、私は彼のことが大好きだったのだから、例え記憶を無くしていたとしても彼に好意を寄せるのは至極当然だと言う。



「寧ろ私としては自分でその考えに至ったことの方が驚きだよ」
「……そう?」
「そうだよー。桜月ちゃんと伊吹さん、付き合うまで……というか桜月ちゃんが伊吹さんのこと好きだって自覚するまでかなり時間かかったって聞いてたし」
「そう、なんだ……」



それは初耳。
何の問題もなく付き合っていたのかと思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。
言われてみれば記憶探しの旅に出かけることはあっても伊吹さんと私がどうやって付き合い始めたのか、どんな付き合いをしていたのか聞いたこともなかったし、彼自身も話そうとはしなかった。
何度かそれとなく聞いてみたこともあったけれど、彼の口は意外に重くて。
彼が語りたがらないものを無理やり聞き出すことは、今の私がしていいことではないと思っている。



「そっかー、でもそれなら伊吹さん喜んだでしょ」
「え?」
「ん?」
「伊吹さんには言ってない、よ?」
「何で?!」



ガタン、と椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がるハムちゃん。
周囲の席の人々の視線が一気にこちらに集まったのが分かる。
まぁまぁ……と宥めて席に戻ってもらってから、だって、と言葉を続ける。

そもそも私がそんなことを言っていい立場ではない。
確かに彼と私は交際関係にあったのかもしれないけれど、それは事故以前のことであって。
今の私がそのままの関係を続けていいとは思っていないし、彼もきっとそれは望んでいないはず。
彼が望んでいるのは、間違いなく私が記憶を取り戻すこと。その一点だと思っている。



「だから、いいの」
「桜月ちゃん」
「伊吹さんがいてくれるだけでいい」



それ以上は望まない。
望んでは、いけない。


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