MIU404長編

□九話
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昨日の夜、彼は本当に部屋に泊まっていった。
これまで20時になると官舎へと帰っていた伊吹さんが、部屋のお風呂を使って、これまで置きっぱなしだった彼の部屋着を身につけて、彼用の枕に頭を乗せる。
きっとそれまで当たり前だった光景。
けれど、今の私には全てが新鮮に見えて。

ベッドに入ってから、宣言通り私をぎゅうぎゅうに抱き締めた伊吹さんは出会ってからのことを、特に付き合い始めてからの話をたくさん聞かせてくれた。
これまでどんなに聞いても口を開こうとしなかったのに。
どうして急に話してくれる気になったのか、と問えば加瀬先生の助言があったからだという。
私が意識を失っている間、加瀬先生と多少の刺激は記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない、という話をしたからだと彼は言っていた。

ツンツンデレだった、という私の話を面白おかしく話してくれる伊吹さんの声をずっと聴いていたかったけれど、彼の温もりがやけに心地良くて話を聞きながら眠ってしまっていたらしい。
次に目を開けた時はもうすっかり日が昇っていて。
慌てて体を起こすと部屋中に美味しそうな匂いが充満していることに気づいた。



「お、おっはよー」
「おはよう、ございます……」
「顔洗っておいでよ。すぐご飯だからさ」
「あ……はい」



退院してこの部屋で生活するようになってから、こんなにぐっすりと眠ったのは初めてかもしれない。
何かが足りない気がして、夜中に目が覚めることが何度もあった。
今日、それがなかったということはきっと体が彼の温もりを欲していた、ということになるのだろう。
体は正直とは、まさにこのこと。



「すみません、昨日話の途中で寝ちゃったみたいで……」
「ぜーんぜん?俺も桜月が寝た後ですぐ寝ちゃったしさ〜」



テーブルにつきながら昨夜寝落ちしてしまった件を謝れば、何てことのないように笑って答えてくれる伊吹さん。
その言葉を聞いて少し安心した。
もし私だけ早々に寝てしまったなら申し訳ないと思っていた。
彼のその答えに内心胸を撫で下ろして、両手を合わせる。



「いただきます」
「召し上がれ〜」



野菜がたっぷり入ったコンソメスープ。
体がすごく温まる。
どこか懐かしさを覚えるのは、彼が以前作ってくれたことがあるからなのだろうか。

食パンのトーストとベーコンエッグ、トマトサラダにコンソメスープ。
一瞬、目の前に同じメニューが過った。
あれは……いつのことだった?



「……桜月?」
「え……あ、美味しい、です」



最近、覚えていない映像が脳裏を過ることが多い。
伊吹さんと一緒にいる時は特に。

これは、記憶が戻る前兆なのだろうか。
きっと彼には喜ばしいことのはず。
ただ……もし、そうなった時に今の私はどうなってしまうのか。
記憶が戻るのと同時に今の記憶は失われてしまうのか、それとも事故後の記憶もそのままに事故以前の記憶が蘇るのか。
以前受診した時にそれは記憶が戻ってみないと分からない、と医師からは言われている。

人間の脳は未知数。
それを考えると今の記憶も残るのかな……。
いや、でも今の感情はもしかしたら邪魔になるかもしれない。
そう思うと記憶が戻るのは少し寂しいと感じてしまう。



「今日どうしよっか。天気良いし、どっか出かける?ハムちゃんと行ったパスタも行きたいしな〜」
「そう、ですね……」
「桜月?どした?頭痛い?」



気遣わしげな声色にハッとして顔を上げると、心配そうにこちらを見ている伊吹さんと目が合った。
そんな顔させるつもりなかったのに。
取り繕うように笑顔を貼り付けるけれど、時すでに遅し。
席を立ち上がった彼が心配そうに私の額に手を当てる。

温かくて大きな手。
この手に触れられることがこんなにも心穏やかになると同時に胸を締め付けられるような、そんな相反する感覚に襲われる。



「ん?どした?」
「伊吹さん……私、」
「うん?」
「……いえ、何でもないです。
少しゆっくりしてから出かけましょう」
「ん……そうだね」



そう言って笑った伊吹さんの手がゆっくりと離れていった。
それが寂しいと思ってしまう辺り、もうきっと私は彼がいないとダメなんだ。



「何つって〜」
「?!」



席に戻りかけた彼がニヤリと笑って両手で私の頬を挟んで、ぎゅっと押し潰す。
突然の行動に反応ができず、間抜けな顔になってしまっているのは見なくても分かる。



「もうさ〜、そういう遠慮なしにしよーぜ?」
「うぅ……」
「んで?何言おうとしたの?」



手の力が緩められて、言葉が発しやすくなったけれど。
先程、言いかけた言葉は本当に口に出してしまってもいいのだろうか。
彼の迷惑になるかもしれない。
記憶の有無に関わらず私のことが好きだと言ってくれた伊吹さん。
彼の気持ちはすごく嬉しい。

でも、



「伊吹さん……」
「ん?」

「私……私も伊吹さんが好きです」

「え、?」
「ごめんなさい、困らせることは分かってるんです。
でも、っ……!」



次に続けようとした言葉は、彼に抱き締められて口から出すことができなかった。
抱き締められたことに気づいたのは口を開けられなかったからで、…………思考が追いつかない。
何で、?



「伊吹さん……」
「ホントさぁ、」
「え?」
「桜月は俺のこと喜ばせるのが上手だよなぁ……」



苦しいくらいに抱き締められて、どのくらい経ったのだろう。
時間にしたらきっと3分も経過していないはずなのに、こういうスキンシップに免疫のない私には永遠にも感じられて。
ぽつり、と彼が発した言葉に耳を傾ければ、ようやく背中に回された腕の力が緩められた。



「伊吹さん……」
「ん?」



彼との間に少しだけ空間ができて、至近距離で見つめられる。
かつてないほどの近距離にどぎまぎしてしまって、目を合わすことができない。
背中に置かれていた彼の両手がゆっくりと移動してきて、そっと私の頬を撫でて。
そしてそのまま唇を親指でなぞられる。



「ね、」
「っ……はい、?」
「しても、いい?」



何を、なんて聞くほど野暮でもウブでもない。
どうしたらいい?



「嫌なら、しないよ?桜月のこと、大事だから」
「っ…………」



その言い方は、狡いと思う。

視界がぼやけて伊吹さんの輪郭が歪む。
何で泣くの、と少し笑った彼が指先で優しく目元を拭ってくれた。
少しずつ近づいてくる彼の顔。
額と額が合わさって、もう互いの吐息が感じられるほど。
もうどこにもフォーカスが合わない。

それでも、肝心なところは離れたままで。



「……伊吹さん、狡い」
「前も言われた」
「だって、狡いもん」
「じゃあ、ちゅー、しない?」
「……嫌、です」



知ってる、と嬉しそうに笑った伊吹さんと、ようやく影が重なった。


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