MIU404長編

□十話
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「う……、」



身体が、重い。
それに、痛い。

瞼をこじ開ければ、気持ちの良い青空が広がっている。
瞳からの情報が開かれたと同時に他の体の器官の感覚も戻って来たようで。

耳に届くのは救急車のサイレンの音と、大勢の人のざわざわとした話し声。
鼻に届いたのは何か焦げた臭いと、やけに生臭い……血、?
口の中でも切ったのだろうか、鉄の味がする。



「……重、」



さっきから身体が重いと思っていたけれど、何かが覆い被さるように私の上に乗っている。
首を動かそうにもしっかりと抱きかかえられるようにして押さえつけられていて、どうにも身動きが取れない。
私にこんなことをするのは、一人しかいない。



「、伊吹、さ……」



何とかして体を動かそうともがけば、覆い被さっていたものにピクリと動きがあった。
ずるり、と引きずるようにして私の上から重みが退けられた。
ゆっくりと起こせば、左腕に痛みが走る。
見れば広い範囲で細かい切り傷ができている。
きっと転んだ時にここを一番初めに地面についてしまったのだろう。

そういえば、私を抱きかかえていた彼は、



「っ、?!」



どうして、
何で、
言葉が出てこない。

私の上から退けていった大きな体躯は、先程までの元気な姿と様変わりしていて。

鼻につく、血の臭い。
彼の頭から、身体から、大切な何かが抜けてしまうような、



「っ、」



目の前に広がる紅に、視界が歪む。
何かと、重なる。

頭が痛い。
先程まで近くで聞こえていた救急車のサイレンの音や、救急隊員の声、群衆の喧騒が遠ざかっていく。

頭が、いたい。
割れるように、痛い。



あのときとおなじ、あかいち。
きこえないはずのおじいちゃんのこえがきこえる。

あめのおとが、かみなりのおとが、ちかづいてくる。



「っ、…………あ、い」



そこで、意識が途切れた。





































































「う、……」
「桜月ちゃんっ?!」
「はむ、ちゃん……」
「よかっ、た……!」



重い瞼を押し上げると、真っ赤な目をしたハムちゃんがいた。
名前を呼べば、その大きな瞳からボロボロと大粒の涙が零れ落ちていく。
最近泣かせてばかりで申し訳ないな、なんて思いながらそっと彼女の頭に手を乗せる。



「桜月、ちゃん……?」
「ん、?」
「っあ……お医者さん呼ばないと……」



そう呟いた彼女が慌てて枕元のナースコールを押す。
ナースコールの向こう側から聞こえてきた声とハムちゃんが一言二言、言葉を交わした後で『すぐ向かいます』と返事が聞こえた。
ここが病院だということは分かる。
目の前にいる女性が、羽野麦ことハムちゃんだということも。
ただ、それ以外の情報が何もない。



「目、覚ましたか」



病室に駆け込んできた男性には見覚えがあって。
医療従事者が身に着ける、モスグリーンの着衣と無精ひげ、それとどこか疲れたようなその面持ち。
最近、よくお世話になっているその男性は、



「……加瀬、先生?」
「おう、気分はどうだ」
「頭が痛いです、あと左腕と……左足?」
「腕と足は分かるが、頭もぶつけたか?
CT見る限りだと異常はなかったが……」
「いえ、これはたぶん……、あの、先生」



ぽつぽつと会話をするうちに少しずつ意識が鮮明になってきたのが自分でも分かる。
会話をしながら脈を測ったり、怪我の様子を見たりしていた加瀬先生が顔を上げて真っすぐに私の顔を見た。



「藍は、伊吹藍はどこですか」
「……高宮さん、記憶が戻ったのか」



加瀬先生だけでなく、ハムちゃんまでもが息を飲んだのが分かる。
おそらくハムちゃんは違和感に気づいていたのだろう。
ついこの間会った時の私と、今の私の雰囲気が異なることに。


「そう、みたいです」
「桜月ちゃん……!」



記憶が戻った、と表現していいのだろうか。
約半年前に事故に遭ったことも、
事故の後、長期入院していたことも、
彼のことを『伊吹さん』と呼んでいたことも、
私はどんな状態であっても彼のことが好きだということも。
全部、全部覚えている。

記憶が戻ったというよりは、蓋をされていたものがこじ開けられた、という表現が正しいのかもしれない。
彼のことも含めて全て忘れてしまっていた間のことも今の私の中に全部積み重なって残っている。



「加瀬先生、」
「……起きられるか」
「え、あ……はい」



意識を失う前、全身から血を流して固く目を閉ざしていた彼の姿が脳裏に浮かぶ。
加瀬先生の表情が硬いように感じるのは気のせいではないはず。
そして、その隣にいるハムちゃんも、先程とは異なる涙を流している。



「今、車椅子を用意する」
「え……」
「左足、折れてはいないが捻挫してる。
無理に歩くと悪化するぞ」
「あ……はい」



ふと辺りを見渡せばスタッフステーションのすぐ隣の病室にいたことが分かる。
前の事故の時はICUにいたはずだけれど、怪我の程度から見てICUに入る必要はないと判断されたのだろうか。
確かに、目覚めてすぐに車椅子に乗せられる辺り、重体でも重傷でもないのだろう。

そもそもICUにいた、という状況を私自身は知らない。
目を覚ました時には一般の病室にいたし、ICUにいたという事実は彼の口から聞いただけで私がそこにいた時、意識はなかったから自分の身がどれほど危険な状態だったかは知る由もない。

ハムちゃんに手を借りながら上体を起こしていると、加瀬先生が車椅子を押して再び病室に現れた。
ゆっくり車椅子へと移動すれば『行くぞ』とそのまま加瀬先生が後ろを押してくれる。
何だか申し訳がない。

……何となく、嫌な感じが胸に張り付いて剥がれないのは、どうしてだろう。

ゆっくりと車椅子が動き出す。



「ここ、は……ICU、ですか」
「あぁ……前の時はアンタもここにいたけど、意識なかったからな」
「……藍、は?」



私の問いかけに返事はなく、またゆっくりと車椅子が動き出した。
整然と並んだベッドの一番奥。
その前で車輪の動きが止まる。
そこには、見慣れた顔の見慣れない姿が静かに横たわっていた。

頭も、腕も、足も、……きっと胸にも包帯が巻かれている。
ところどころ血の滲んでいる箇所もある。
私の怪我が軽傷で済んだのは、おそらく彼が全て衝撃を受けてくれたお陰。
そうでなければ彼がこんなに悲惨な状態になっているはずがない。



「あ、い……」
「車が、吹っ飛んできたのは分かるか?」
「何となく、覚えてます……」
「アンタを庇おうとした、それで本人はこの状態だ」



そう言った後で、今の彼の状況を説明してくれる加瀬先生。
ただ、難しい説明で頭が追い付かないのか、それとも状況を理解したくないのか、どちらかは分からない。
加瀬先生の言葉は右から左へと抜けていく。
頭に入ってこない。



「……部屋に戻るか?」
「だ、いじょうぶ、です……」
「今のアンタに言うことじゃないかもしれないが、意識が戻る確率は五分五分だ」
「…………」
「手は尽くした。
あとは……患者の生きたいって気持ちが、どのくらい強いか……それに頼るしかない」



包帯で覆われていない彼の左手にそっと触れる。
いつもと同じ、温かい手。

それなのに今は手を握り返してくれることはなくて。
その事実が、ただただ悲しかった。


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