コウノドリ

□個人レッスン
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定時をとっくに過ぎての帰宅。
そんなことにはもう慣れた。
今日は家に帰れるだけまだいいかと思いながら部屋のドアを開ける。
淀んでいるであろう空気を受けるつもりでいたが開けた瞬間、部屋の中から食欲をそそる匂いが鼻孔をくすぐる。
いつからだろう、こうやって彼女が僕の部屋に来て料理をしてくれるようになったのは。

合鍵を渡した頃からだったか。
初めのうちはいつ帰って来れるか分からないからと遠慮したが、それでもいいからと押し切られて今に至る。
今となっては彼女の心遣いがありがたい。
そういえば昼のカップ焼きそば、緊急カイザーが入って満足に食べられなかったな、なんて今頃になって思い出す。
途端に体が空腹を訴え始めた。



「ただいまー……?」



リビングの電気は点いているし、部屋の空気感からして彼女がいるのは明白。
しかし、姿が見えない。
眠ってしまったのだろうか、それならあまり音を立てるのは申し訳ない。
自分の部屋ではあるが極力音を立てないよう移動すれば、微かに漏れ聞こえるピアノの音。
おや、と思い耳をすませば、たどたどしく奏でられるメロディが聞こえてくる。



「珍しい…」



随分前に一緒にいる時にふと思いついたメロディを捕まえて曲を作った時のこと。
ピアノだけはどうしても駄目、私は聞く専門でいい、なんて言って笑っていた彼女だったが今日はどういう風の吹き回しだろう。
足を向けていた向きを変えて、ピアノの置いてある部屋のドアに手をかける。
音を立てないように、そっとドアを開けて中の様子を窺う。

予想通り。
譜面台に置かれた楽譜を睨みつけるように、というより文字通り睨みつけながら首を傾げる彼女の姿。
あまり見られないその姿に頬が緩むのが分かる。



「、サクラ?」
「うん、ただいま」
「…おかえり、あと……ごめん」



視線を感じたのか振り返った彼女が少し目を見開いて名前を呼ぶ。
にこりと笑って帰宅を告げれば、少し気まずそうに目線を逸らして謝られた。
何故謝るのだろう。



「ピアノ、勝手に使ってごめん」
「あぁ、そんなこと。いいんだよ、気にしないで?仕事?」
「うん…ちょっと、来週弾かなきゃいけなくて……」



側に行って譜面を見れば、1音1音に音階が振られて左手は最低限まで動きを減らした並び。
どこかで聞いたことのあるフレーズを弾いていたように感じたがタイトルを見て思い出す。
あぁ、この曲か。
そういえばそんな時期だったな、なんて考えていたら居心地悪そうな桜月がそっと譜面台から楽譜を外した。



「あんまり見ないで、……恥ずかしい」
「どうして?」



思いもよらない言葉に首を傾げる。
苦手なことも頑張ろうとする君、僕はその姿も愛おしいのに。
口を尖らせて少し言い淀んだ後でぽつりと呟いた。



「だって……簡単な曲を更に簡単にして、それでも弾けないんだもん…」



サクラにはこんなの朝飯前でしょと、耳をほんのり朱に染めて拗ねたように顔を逸らす桜月。
その姿が可愛くて、思わず笑みが溢れる。
からかわれたと感じたのか、ムッとしたようにスツールから立ち上がる彼女をまぁまぁと宥めて座り直させるとその隣に腰を下ろして手から楽譜を受け取ってまた譜面台に戻す。



「……狭い」
「ごめんごめん。
で、さっき弾いてたのはここ?」
「…ん、指が上手く動かせない」



何度か彼女の手が止まっていた小節を指せば、隣で戸惑いながら鍵盤に指を乗せて弾き始める。
やはり同じ箇所で手が止まってしまうのは指遣いの問題か。



「ここ、無理に親指使わなくてもいいと思うよ」
「え、」
「流れ的にもそのまま中指で弾いて、次の小節でこうすれば…分かる?」
「…うーん……もう一回見せて」



オクターブ上で弾きにくそうにしている箇所の指遣いを変えて弾いてみせる。
少し速かったか、ともう一度少しテンポを落として弾くと彼女も軽く空中を仰いだ後で再び鍵盤に指を置く。
たどたどしくも先程よりはスムーズな指遣い。
パッと花が咲いたような笑顔で見上げられた。



「できた?!」
「うん、さっきよりいいと思う」
「ありがとう!何回やってもここができなかったの!」



喜びが押さえきれないのか脇腹にぎゅっと抱きついてくる桜月。
こんなことならいくらでも。
君の役に立つのなら、僕はできる限りの全てを捧げよう。
きっと君はそこまで望んでいないかもしれないけれど。



「お礼なら、さ」
「……?」
「コッチがいいな?」
「っ……!」



わざと戯けたように自身の唇を指差せば、途端に真っ赤に染まる彼女の頬。
あまりからかうと怒られるかな。
ふっと笑みを溢して立ち上がろうとすれば不意にシャツを引かれた。



「?…っ、」



覚悟を決めた表情が見えた、その瞬間に柔らかな感触が唇に触れた。
我に返った時には既に温もりが離れていて、思わず彼女の頭を引き寄せ、唇を追いかけてまた口付けを交わす。
一瞬驚いたように見開かれた瞳はすぐに恥ずかしそうに閉じられた。



「ん、んっ…」



息苦しそうな声が漏れて、シャツの胸元をきゅっと掴まれる。
それだけで体の奥が酷く熱くなる。
名残惜しいがそっと離れると顔を真っ赤にして目元を潤ませている桜月が目に飛び込んてくる。



「ごめん、ちょっと無理かも」
「え、サクラ?」



無自覚な煽動に煽られるまま、再び口付けを落とそうとした、
その瞬間。



ー…グゥ〜……ー



「え…」
「っ、何でこのタイミングかなぁ〜…」



昼食抜きがここに来て仇となった。
甘い雰囲気をぶち壊すように鳴るお腹の音。
飢餓状態を訴えて、もう一度グゥ、と鳴った。
驚いている桜月の肩にがくりと頭を乗せれば、ふっと楽しそうに肩が揺れた。



「お昼、食べてないの?」
「んー…ちょっとバタバタしてね…」
「じゃあ夕飯温めるよ」



そっと僕の頭に手を乗せてから離れようとする桜月の腰に腕を回して、肩に頭を埋めたままイヤイヤと子どものように首を振る。
くすぐったいよ、と笑う彼女の表情は計り知れないが声色からして怒ってはいないようだ。
もう少しだけこのままで、とは思うが体が、胃が限界を迎えている。
まだ腕の中に収めておきたい、という欲望を無理矢理押し込めて桜月から手を離す。



「……ねぇ、サクラ?」
「うん…?」



そっと離れていった温もりを寂しく感じているとドアに向かった彼女がこちらを振り返って、ドアを閉める間際に呟くように言い放った言葉。



「……続きは、また後で、ね」



あぁ、もう。
今なら甘ったるいラブソングも書けそうだ。



*個人レッスン*
(続きってピアノの方…)
(だって、まだ通して弾けない)
(うん…はい、じゃあ…頑張ろう……)
(ごめん…)
(いいよ、レッスン代は後でまとめて体で払ってもらうから)
(っ…!)



fin...


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