コウノドリ

□個人レッスン
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それなりに忙しい時期がようやく過ぎ、久しぶりに定時で上がることができた。
最近忙しさを理由にあまり彼とも会えていない。
もっとも自分より忙しい彼のことだ。
会いたいと思ってすぐに会える訳でもない。
それを寂しいと思った時期もあったが、生まれてくる命の為、そしてそれを守るお母さんの為に昼夜問わず呼び出しに応じる彼の姿は眩しく、誇らしいとすら思うようになったのはいつのことだったか。

そんな昼も夜もない中で、乱れまくっている生活の助けになれれば、と久しぶりに彼の部屋の合鍵を使った。
ドアを開けてみれば空気が淀んでいる。
一体彼がこの部屋を出たのはいつのことだろう。
とりあえず窓を開けよう。
そして山積みになっている洗濯物を片付けて、シンクの中に置きっぱなしの食器を洗って、いつ食べるか、そもそも食べてもらえるか不明だが何品か作り置きしておこう。
冷蔵庫の中はどうせペットボトルしか入っていないと踏んで部屋に来る前に食材は買い込んできた。
もしまだしばらく帰れないなら自分が食べればいい。



「よし、やるか」



まずは淀んだ空気の入れ替え。
食材をキッチンに置いて、窓を開け放った。








「まぁ、こんなもんかな」



彼の部屋に来てから何かと家事をこなしているうちに既に3時間は経っていた。
自分の夕飯がてら作った食品をタッパーに小分けにし、あとは冷ますだけ。
我ながら頑張った方である。
さて、この後はどうしようか。
忙しい時期が過ぎたとは言え、実は仕事は持ち帰っている。
仕事を持ち帰ることは度々あるが、正直今回はあまり気が進まない。
しかし、期限は一週間後。しかも彼の部屋には自分のところにはない格好の練習の場がある。

時計を見れば、21時を回ったところ。
帰って寝るにしてもまだ早い。
仕事用のバッグを見て頭を抱えた後、仕方なく紙を取り出してフラフラとリビング隣の部屋へと向かうことにした。





「…もう、また間違えた。というか何なのコレ。
こんな動きできないって…」



仕事上、どうにも逃げることができない、ピアノという楽器。
同僚の他の仕事を受ける代わりにお願いしまくって避けてきたが今回ばかりはどうにも逃げられなかった。
産科医とピアニスト、という二足のわらじの彼からすればこんな曲、朝飯前だろう。
普段はJAZZピアニストな彼がこの曲を弾いたらどんな感じになるんだろう、と妄想しながら何度やっても上達しない自分の指を再び動かし始めた。








練習を始めてから1時間も経った。
正直なところ、もう嫌になっている。
何度やっても同じフレーズで引っかかる。
弾ける気がしない、と恨みがましく楽譜を睨んでいるとふと視線を感じた。



「、サクラ?」
「うん、ただいま」
「…おかえり、あと……ごめん」



振り返って見れば、ドアを少し開けて家主がこちらを伺っていた。
にこりと笑って、帰宅を告げる彼。
気づかなかったし、不在時に大切なピアノを借りてしまい申し訳なさがこみ上げる。



「ピアノ、勝手に使ってごめん」
「あぁ、そんなこと。いいんだよ、気にしないで?仕事?」
「うん…ちょっと、来週弾かなきゃいけなくて……」



何てことないように側に来る彼に歯切れの悪い答えしかできない。
いつから聞かれていたのだろうか。
しかも彼からすればこんな簡単な曲に1音1音、音階を書いて、ピアノが得意な同僚に左手の動きは極力減らしてもらった楽譜を見られるのは何とも恥ずかしい。
居心地悪くて譜面台から楽譜を外した。



「あんまり見ないで、……恥ずかしい」
「どうして?」



見ないでなのか恥ずかしいなのかどちらに疑問をもったのかは分からないがサクラが首を傾げる。
無意識に口が尖ってしまうのを止められない。



「だって……簡単な曲を更に簡単にして、それでも弾けないんだもん…」



サクラにはこんなの朝飯前でしょと、先程の妄想を少し溢すとふっと笑みを浮かべる彼。
当たり前だよね、と思いながら恥ずかしくて少しつっけんどんな態度でスツールから立ち上がると、まぁまぁと宥められてまた元の位置へ。
そして直ぐ様、その隣に腰を下ろしてくるサクラが私の手から楽譜を取ってまた譜面台に戻す。



「……狭い」
「ごめんごめん。
で、さっき弾いてたのはここ?」
「…ん、指が上手く動かせない」



二人並んで座るには少し狭いスツールで触れ合う部分の温もりが、何より彼が帰って来たことが、嬉しいのに素直になれない自分が嫌。
そんな自分の心の内を知ってか知らずか、サクラは軽くフレーズを口ずさみ、先程何度やっても上手く弾けない小節を指差す。
その部分だけ弾こうとするがやはり同じ。



「ここ、無理に親指使わなくてもいいと思うよ」
「え、」
「流れ的にもそのまま中指で弾いて、次の小節でこうすれば…分かる?」
「…うーん……もう一回見せて」



楽譜通り、というか指示通りにしか動かせないでいた私に活路を見出してくれたサクラ。
しかしながら一度見ただけでは覚えられない。
もう一度少しゆっくり弾いてくれたサクラの指遣いを頭の中で再度繰り返して、鍵盤に指を乗せる。
彼ほど滑らかな動きはできないが、それでもこれまで自分で練習してきた弾き方よりも格段に弾きやすい。
流石ピアニスト。感動すら覚える。


「できた?!」
「うん、さっきよりいいと思う」
「ありがとう!何回やってもここができなかったの!」



やっとできた、と嬉しくて思わずサクラに横から抱きついた。
まだ完全とは言えないけれども、これならあと一週間練習すれば何とかなりそうな気がする。
持つべきものはピアノができる彼氏だ。



「お礼なら、さ」
「……?」
「コッチがいいな?」
「っ……!」



戯けたような口調が降ってきて、思わず顔を上げれば楽しそうに笑うサクラが目に入る。
言動の意味が分かると、鏡を見るまでもなく自分の顔が赤くなるのが分かる。
私の反応を見たからか、苦笑しながら立ち上がろうとするサクラ。
それはそれでちょっと切ない。

いつもいつも与えられてばかり。
求められても臍曲りの性格が邪魔をして素直になれない。
何度自分の性格を恨んだことか。




「…っ、」



シャツの裾を掴まえて、そっと唇を重ねれば彼が息を飲むのが分かった。
恥ずかしさの余り、一瞬で離れれば伸びてきた左手で後頭部を引き寄せられてまた重なる呼吸。
咄嗟のことに反応できなくて、それでも目の前の瞳と視線が交わるのが恥ずかしくて、きゅっと瞼を閉じた。



「ん、んっ…」



角度を変えて何度も浅く、深く、口付けられる、長い、キス。
呼吸が苦しくなって声が漏れる。
苦しい、と言葉にできない代わりにサクラのシャツをぎゅっと掴む。
ようやく、ゆっくりと離された唇。
息苦しくて涙が浮かぶのを止められない。
彼とのキスは嫌いではない、むしろ好きだけれども。
この息苦しさだけはいつまで経っても慣れることはない。



「ごめん、ちょっと無理かも」
「え、サクラ?」



ぼんやりとサクラを見上げていれば、余裕のなさそうな表情でまた引き寄せられた、
その瞬間。



ー…グゥ〜……ー



「え…」
「っ、何でこのタイミングかなぁ〜…」



今のは、何?
もしかして……サクラ、お腹が鳴った?
ダメ押しでもう一度、グゥ、と鳴る。
本人も分かっているのだろう。
半分向かい合った状態のまま肩にがくりと力が抜けてよりかかってきた彼の頭が乗せられた。
つい先程までとの空気と一変してしまい、思わず笑いが溢れた。



「お昼、食べてないの?」
「んー…ちょっとバタバタしてね…」
「じゃあ夕飯温めるよ」



やはり作っておいて良かった、今回は食べてもらえそうだ、とポンポンと肩に乗せられた頭を撫でて、軽い夕飯の用意をするために離れようとするが逆に腰に腕を回されて動きが取れなくなってしまう。
肩口に顔を埋めたまま子どもが甘えるようにしてイヤイヤと首を振るサクラ。
彼のふわふわ癖毛が当たり、くすぐったいよと思わず声が出る。
疲れているのだろう、このままでいてもいいがまずは胃に何か入れてほしい。
渋々と言う単語がピッタリ当てはまるくらいに腰に回された腕が解かれた。



「……ねぇ、サクラ?」
「うん…?」



すぐに準備するから、と思いつつそっと離れる。
きっと彼はこのままピアノを少し弾くのだろう、私ももう少し練習したい。
振り返って、ドアを閉める間際に呟くように言い放つ。



「……続きは、また後で、ね」



勿論、ピアノだけじゃないけれど。
それを言葉にするのはまだ恥ずかしい。



*個人レッスン*
(今日、泊まるよね?)
(え、帰るけど)
(こんな時間だよ?!)
(明日も仕事だし…帰ったらすぐ寝るし)
(帰って寝るだけならここで寝ていけば睡眠時間長くなるでしょ)
(あんまり変わらないでしょ…)
(僕のモチベーションが変わるよ!朝、起きた時に桜月がいるだけで一日頑張れるから!)
(……分かったから、恥ずかしいこと力いっぱい言わないで)



fin...


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