コウノドリ

□永久就職
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今日は穏やかな日だった。
助産師主導のお産が2件、どちらも母子共に健康に出産。
外来も滞りなく進んだ。
事務的な仕事は確かに山積みだったが、お産も外来も順調だったお陰で1/3まで減らしたところで定時が来た。
最後までやって行こうかとも思ったが、彼女が今日は早番だと話していたことを思い出して、書類仕事の手を止めて私用のスマホを手に屋上に足を向ける。



《もう仕事終わった?それともまだ仕事してる?》



電話をしようかとも思ったが、万が一まだ職場にいたら……周りに誰かいる状況で電話に出てくれる可能性はすこぶる低い。
メールならば、きっと…おそらく返信してくれるだろう。
もし彼女の仕事が長引いているなら自分も書類の続きをして、時間を合わせてどこかで食事をしよう。
奇跡的に彼女が帰宅しているなら、残りの書類は明日の自分に託そう。

書類仕事で固まった体を解そうと肩を回していると、スマホが短く震える。



《家にいる。サクラは?》



今から帰るよ、と端的にメールを返信し、急ぎ足で屋上を出る。
明日の自分、残りの書類は頼んだ。
そっとデスクの引き出しに書類を仕舞って帰路につく。
近くにいるのに顔を見るのはいつぶりだろう。
嗚呼、信号待ちすら時間が勿体ない。










「ただいまっ……あれ、?」



後半はもはや短距離走並みのスピードで走ってきた。
部屋のドアを勢いよく開けるが、待ち焦がれた人の姿はいなかった。
自分の部屋にいるのだろうか。
そもそも彼女は《家にいる》と言っていたが、僕の家とは一言も言っていない。
とりあえず弾む息を整えてから電話をしよう、とペットボトルを取り出そうと冷蔵庫の扉を開けた。



「……あれ?」



今朝、冷蔵庫を開けた時は水とゼリー飲料しか入っていなかったはず。
しかし今はタッパーがいくつも整然と並んでいる。
魔法使いか妖精でもいない限り、自分の部屋の冷蔵庫にこんな風に手料理を詰め込んでくれるのは一人しかいない。
水を口にした後でスマホを操作し、今度こそ電話をかける。



「もしもし、妖精さん?」
『………何言ってんの?』
「うん、冷蔵庫開けたら美味しそうな物がたくさん入ってたから魔法使いか妖精さんが入れてくれたのかなって」
『…魔法使いでも妖精でもないけど、入れたのは確か』



ふざけた訳ではないけれど、彼女が部屋にいないことが何となく気になって。
少し軽い口調で話してみれば、どことなく元気のない口調で返される。



「いつもごめんね、ありがとう」
『別に…料理嫌いじゃないし』
「ところで桜月、今どこにいるの?」
『……自分の部屋にいる』



家、とはやはり彼女の部屋の方だったか。
しかしそれならば冷蔵庫に詰め込まれた料理の数々の説明がつかない。
この部屋で料理をしてから自分の部屋に戻ったのだろうか。
いくつもの疑問が頭に浮かんでは消える。



『…サクラ?』
「あぁ、ごめん。もしかしてまた仕事してた?邪魔しちゃったかな」



気づかぬ内に無言になってしまった僕の名前を彼女が呼ぶ。
努めて明るく、彼女に聞いてみる。
また持ち帰った仕事をしているなら、今日は彼女の顔を見るのは諦めてピアノを弾こう。
賢ちゃんから新曲の催促が入っていたのを思い出した。



『んーん、部屋でボーッとしてた。大丈夫』
「じゃあ…お邪魔してもいい?」
『…………』
「疲れてるならごめん、でも少しでいいから顔が見たい」
『……………』
「…桜月?」



返事がなくて、不安になる。
表情が見えない分、何か口にしてはいけないことを言ってしまったのか、やはり今日は無理なのか。

しばらく互いに無言が続いてしまい
ごめん、我儘だったね
と口に出す前に「私がそっちに行く」と呟くようにして電話越しに聞こえて通話が終了された。















ーピンポーン…



珍しくチャイムが鳴る。
急いで鍵を開ければ、愛しい彼女がそこにいた。
彼女を迎え入れるように体をずらせば、無言のままドアをくぐり、部屋の中に入ってくる。
そしてそのままリビングのソファ、彼女の定位置で体育座り。
薄々感じてはいたが、何かあったのだろう。
確信に変わった瞬間だった。



「ごめんね、疲れてるのに来てもらっちゃって。朝早かったんだよね」
「うん……」
「何か飲む?」
「うん…」
「ご飯は食べた?何か作ろうか?」
「カップ焼きそばしか作れないでしょ」



話半分で聞いているかと思えば、最後はしっかりと返事が来た。
仰る通り、と苦笑しながらとりあえずで入れたコーヒーを2つ、ソファーテーブルに置いて彼女の隣に座る。
身じろぎした彼女がそっと寄りかかってきた。



「疲れてるのに、たくさん作ってくれたんだよね、ありがとう」
「…うん」
「お礼に何かしたいんだけど、何か僕にできることある?」
「…………サクラ、」
「うん?」



今日初めて目が合った、と思う。
体を預けていた彼女が少し離れて僕を見上げて、小さな声で呟いた。



「ピアノ、聞かせて」



断る理由はどこにもない。
彼女の手を取って、ピアノがある部屋へと向かう。
最近は彼女専用になっている小さなソファに座らせて、スツールに腰掛ける。
リクエストは、と問えば何でもいい、と桜月は膝を抱えた。
それなら前に彼女が好きだと言ってくれた曲を、彼女の気持ちが晴れるまで、弾こう。










30分ほど弾いただろうか。
Brightnessを弾き終えたところで背後で彼女が動く気配がした、と思えば振り返る暇もなく後ろから首元に腕を回された。
振り返ろうにも抱き締めようにも身動きが取れない。
彼女の腕が微かに震えていることに気づいて、肩に置かれた頭にそっと手を乗せた。



「ちょっとさ…」
「…うん」
「仕事でパンクしそうになって」
「そっか」
「何かミスしたとか、事故があったとかじゃないんだけど……」
「いつも大変だもんね」
「でも今日は早番だし、帰って料理したかったから時間ですぐ上がったの」



そしたらちょっと嫌味言われちゃってさ、何か疲れちゃった
と力なく笑う彼女。
彼女の職場は自分のところ以上に女社会。
何かと摩擦が起こるのだろう。
定時で上がれる時に定時上がりすることの何がいけないのだろう、とは思うが色々あるのは以前からよく聞いていた。
一度深く聞いてみたこともあったが、あまり多くは語らない代わりに「色々ね、あるのよ…面倒だけど」と見たこともない複雑そうな表情をしていて、これは踏み込むのは良くないと判断したのはいつのことだったか。



「そもそもさぁ…」
「え?」



弱々しかった声に熱が篭もったのを感じた。



「今の時点で給料以上の働きしてるのに更に残業求められるっておかしくない?しかも給料が発生しないサービス残業!
今日の私の仕事の時間は終わりだし、確かに事務仕事は残ってたけど別に急がない仕事だから早番の日くらい早く帰りたいわ。
そんなことをナチュラルに求めるからこの業界、いつまで経ってもブラック扱いなのよ。求められる姿が優しいとか大人しいとかならそういう姿でいられるくらいの余裕のある生活ができる仕事量にしてよね!」
「おっと…」



ガバッと起き上がった桜月が普段の鬱憤を晴らすように一息に思いの丈を吐き出す。
予期せぬ動きにバランスを崩しそうになった。
先程までの弱々しい姿は何処へ。
思い出しているうちに怒りに変わったらしい。
まぁ、弱っている姿を見るよりはこちらの方がいい。

来年は絶対転職するんだから、と決意を新たに自己完結したであろう彼女の方をようやく振り返り、そっと抱き寄せた。



「少し、気が晴れた?」
「………ごめん」
「謝ることないよ。溜め込んで倒れちゃうより吐き出した方がいいよ」
「…ありがと」
「まぁ、吐き出すなら僕の前だけにしてほしいけどね」
「…何で?」



落ち着いたのか我に返ったのか、少し恥ずかしそうにする桜月。
もう少し、僕を頼る君を見ていたかったけど、いつものその表情が見られて少し安心。



「他の誰かに桜月の泣き顔は見せたくないからね」
「……馬鹿サクラ」
「ふふ、……あ、そうだ」
「ん…?」
「いい転職先が1ヶ所あるんだけど、」
「サクラが何で知ってるの…」



訝しげに眉を寄せる桜月に苦笑してみせながら立ち上がる。
首を傾げる彼女の額に口付けを落とす。



「っ、」
「僕のところに永久就職、なんてどうかな」
「……は、…え?」



目を丸くして見上げてくる彼女が可愛くて、また一つ、今度は唇にキスをする。
何度か口を開いては閉じ…を繰り返して言葉を絞り出そうとしているのがよく分かる。



「最終手段でそれも手だよ、ってこと。僕としては桜月が就職してくれるならいつでも大歓迎だけどね」



真っ赤になっている彼女の頭にぽんぽん、と手を乗せてからリビングへと向かう。
先程、手つかずのままになっていたコーヒーを淹れ直そう。
その後、一緒に食事をしよう。
自分が何か作ってもいいし、食べに行ってもいい。
お疲れの君を今日はとことん甘やかそう。



「っ…サクラ…!」
「うん?」
「わ、私っ、仕事辞めないよ!」
「うん、分かってる」
「、そうじゃなくて…!」



部屋を飛び出るようにやって来た桜月。
勿論、彼女が転職を考えるならきっと今年1年、少なくとも3月を迎えるまでは今の職場だろう。
それは常々言っていた、今の子ども達に責任をもちたい、と。
それを否定するつもりはないし、そういう彼女を好きになったのだから。



「…え、永久就職、しても仕事は辞めないってこと!」
「え、」
「今の職場に不満多いけど……この仕事は好きだから、できれば仕事は続けたい」



そりゃ子どもができたとかなら仕事辞めることも考えるけど…と段々言葉尻が窄んでいく彼女を考える暇もなく抱き締めた。
嘘にするつもりはないけれど、彼女の逃げ道が作れたらと思って、少し前から頭の片隅にあった僕の淡い夢を口にしたのに。
思っていたよりも彼女の方が現実的に考えているのかもしれない。



「サクラ、痛い」
「うん、ごめん。でも、もうちょっと」
「……私、仕事辞めないよ」
「うん」
「日がな一日、家事していつ帰ってくるか、そもそも帰ってくるか分かんないサクラを待ってるだけなんて私には無理」
「うーん、…そうかもね」
「でも、」



言葉を切って、そっと背中に腕が回される。
腕の中の彼女がふっと柔らかく微笑んだ。



「サクラを待ってる時間も結構好きだから最初は専業主婦させてもらおうかなぁ」
「…それ、すごい口説き文句」
「何それ」



結局いつも彼女に振り回されて。
でも、それが心地よくて。

大切にするよ
君がいつまでも僕の隣で笑ってくれるように

疲れた時には羽根を休めて
また元気に羽ばたく姿を見せて



*永久就職*
(とりあえず同棲から始めてみる?)
(引っ越しするの…?)
(このマンションのファミリー用の部屋とか)
(別にこのままで良くない?)
(良くない!同棲なら朝起きた時から夜寝るまで一緒に過ごせるんだよ?!)
(……そもそもサクラ、朝起きてから夜寝る時まで部屋にいないことが多いじゃない)
(ゔっ…それは……ちょっと、善処できたら、頑張るけど…)
(別にいいよ、恋人優先なんてサクラらしくない)


fin...


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