コウノドリ

□My BABY
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今夜の当直は下屋。
オンコールは珍しく四宮。
つまり、珍しく何もない夜。



訂正、珍しく呼び出しのかからない可能性の高いBABYのライブ。
楽屋でメイクを施し、ウィッグを被る。
準備は整った。あとは開演を待つだけ。
サクラはテーブルに置いたままだったスマホを手に取り、メールボックスを開く。
昼に届いたメールを読み返して、今日何度目かの溜め息を吐いた。

《ごめん、やっぱり行けない》

以前は、付き合い始める前は、仕事が忙しいと言いながらも何かと時間を作ってライブを聞きにきてくれていた。
だが、付き合い始めてから何度かライブに誘ったが、例え彼女がシフトから外れていてもライブハウスに足を運ぶことはなかった。
これはどういう状況なのだろう。
彼女も忙しいのは十分に承知している。
それでも前の方が聞きにきてくれていたのに…と思わざるを得ない。



「サクラさーん、5分前でーす」
「うん、今行く」
「今日は大丈夫ですか?」
「うーん、今日はよっぽどのことがなければオンコールはないと思うけど…お産に休みはないからね」



頼みますよ〜?と出ていく滝を見送る。

何度となく言った台詞。
そう、お産に休みはない。
だから休める時に休んでほしいとも思う。
それでも、彼女に来てほしいと思ってしまうのは、




「……矛盾してるな」



自分の中の若い考えに苦笑に似た笑いがこみ上げる。
全く、今日の演奏は荒れそうだ、とふーっと息を吐き出してステージへ向かう。




ピアノの前まで行き、深く一礼。
顔を上げて客席を見渡す。
今日も満員御礼です、と滝が言っていたのを思い出した。
珍しく立ち見がいる、と一番奥の壁に寄りかかる人影が目に入った。



「っ、……!」



何で、どうして、
その動揺が一番遠い場所にいる人に伝わったのか、ひらりと手を振られた。
心の中はひどく動揺しているが、他の客には気づかれることはなかったようで、静かにスツールに腰を下ろす。

初めの曲は、セットリストは何だったか
あぁ、もう何でもいい
彼女がいるのなら、好きだと言ってくれた曲を弾こう。































「サクラさーん!!最ッ高でしたよ!!」
「賢ちゃん!お願い!!」
「へっ?」



無我夢中で弾き切った2時間。
立ち上がればスタンディングオベーションを浴びた。
ステージ袖に下がれば、すかさず滝が駆け寄ってきた。
彼からの賛辞を聞き流して、急いで頼み事をする。
帰ってしまう、その前に。








「やっぱり凄いな…」



彼がステージを下りた後も場内の興奮は冷めやらず、惜しみなく拍手を送っている。

今日の演奏は本当に素晴らしかった、と近くで声が聞こえた。
確かに何度かBABYのライブを訪れたことはあったが、その中でも一、二を争うくらい観客の反応がいい。
演奏が始まる前に彼に気づかれたのは誤算だったが、来て良かった。

口々に感想を言い合いながら、席を立つ人が増えてきた。
そろそろ自分も帰ろう。
2時間立ちっぱなしは仕事でもたまにあることだが、ヒールだと足への負担はいつも以上だ。
重だるくなった足を引きずり、出口へと向かう。



「あの、高宮さん、ですよね?」
「え、あ…はい?」



不意に名前を呼ばれて振り返れば、人の良さそうな笑顔の男性が立っていた。
誰だっけ、この人…と記憶のページを綴るが生憎名前が出てこない。
訝しげに眉を寄せれば、ふっと柔らかな笑みを見せた、その男性はどこか鳥の巣頭の彼の笑顔を彷彿させた。



「私、BABYのマネージャーをしております滝、と申します。初めまして」
「あ…どうも、えーっと」
「話は聞いてます、高宮さんこの後お忙しいですか?」
「この後…?いえ、特に予定は……」
「でしたら、BABYに会ってやってくれませんか?楽屋でお待ちなんです」
「………BABYが」



予定がないと言った手前、仕事がある、と断るのも白々しい。
答えかねていることに気づいた滝が、にこりと笑みを深くした。



「今日の演奏、凄かったでしょう?」
「えっ、あぁ…ライブは何度か来たことあるんですが、今日はお客さんが特に反応良かったですね」
「えぇ、僕も驚いてます」
「サク…BABYのプライベートで弾いてもらうこともたまにあるんですけど、知ってる曲ばかりで私も楽しかったです」
「高宮さん、是非会って行ってください。
たぶん…いえ、絶対に今日の演奏、貴女の為のはずです」
「えっ、?」
「普段ライブじゃ弾かない曲が多かったんです。『Minor Heart』とかあまり弾いてくれないんですよ、絶対ライブ向きなのに」



確かに、以前来たライブの中で聞いたことはなかった気がする。
自分の為?自惚れてもいいのだろうか…
考えあぐねいていると背中側に回られて肩を押された。
驚いて振り返るとにっこり、と笑う滝と目が合った。



「さぁ、行きましょ行きましょ!」
「えっいやっ…あのっ」
「連れて行かないと僕が怒られちゃうんで〜」



返事は待たないし聞きませんよ〜と、どんどん裏へ連れて行かれる。
そんなつもりはなかったのに、と思いながら逃げる術はなく楽屋の前までやって来てしまった。
迷う暇も与えられず、滝がノックして返事を待たずにドアを開けていた。



「サクラさん、お待たせ〜」
「遅いよ賢ちゃん。でも、ありがとう」
「じゃあ僕は向こうの片付けしてますんでごゆっくり〜」
「あっ、……」



何か言う前に楽屋を出ていく滝、心の準備をする前に急に二人きりにされてどうすればいいのか。
ドアの前で所在なさげに楽屋を見渡していると、まだBABYのままの彼が近づいてきた。



「来ないって、言ってたのに」
「……ごめん」
「うん、でも来てくれて嬉しかった。
ごめんね、引き止めて」
「別に…仕事は終わってたし」



顔を合わせられない。
目の前の彼から、ふわりと化粧品の匂いがして、俯いてしまう。
さらっと髪を梳かれて頬に触れられる。
同一人物なのに、サクラにはないこの色気はどこから醸し出されているのか。
心臓が早鐘を打ちながら、頭の中は明後日の方向に考えを飛ばしていた。



「来てくれるなら、特別席用意したのに」
「そ、ういうの、いいっ」
「どうして…?好きな人が聞きに来てくれるなら、特別な席でゆっくり聞いて欲しいじゃない」
「私は、サクラと付き合ってるのであって、BABYは違、う…!」
「うーん…BABYは僕なんだけどなぁ」



困ったように笑うBABYを見て、あぁサクラだ、と感じる。
鴻鳥サクラがBABYなのは分かっている、けれどステージ上のBABYと普段のサクラとのギャップが大きくて、説明しようのない複雑な感情が渦巻いて。
結果、BABYのライブから足が遠ざかってしまっていた。
それに、ライブに行くと言えば必ず良い席を用意してくれていて、正当にチケットを獲得した人達に申し訳ない気持ちもあった。

どう説明すればいいのか、口にできずにいれば頭に手を乗せて離れていくBABY。
ウィッグを外してメイクを落とす。



「サクラ…」
「うん、意地悪してごめん」
「……私こそ、ライブ誘ってくれたのにごめん」
「来てくれて嬉しいよ?」
「ねぇ、サクラ」
「うん?どうかした?」
「今日、凄く良かったってお客さん言ってた」
「あぁ…考えてたセットリストとは違ったんだけどね、桜月を見つけたから変えちゃった」



賢ちゃんにはお客さんの反応は良かったけど急に変えるの無し!って怒られたけどね、と何てことないように笑う。
その、いつもと変わらない笑顔に胸が苦しくなり、サクラの胸に飛び込んだ。



「桜月?」
「……BABYが、あんな風に称賛されるの、凄いな、カッコいいなって思う」
「…うん?」
「でも、BABYはサクラだから…私の、……好きな人だから、あんまり見ないで、とも思う」
「…桜月」
「、ごめん…何か変なこと言った、帰る」
「待って待って、ちょっと待って」



恥ずかしくなって離れようとすればそのまま背中に腕を回されて抱き締められる形になる。
何と言ったらいいのかな、と前置きしてからゆっくりと口を開くサクラ。



「僕にとってピアノは感情を昇華する為のものでね、それはBABYとして活動するようになっても変わっていないんだよ。
それに根本が僕だから、桜月が久しぶりに来てくれれば嬉しくてセットリスト無視して桜月の好きな曲ばかり弾いちゃうくらい、最近は桜月中心に物事考えてるよ」
「……別にそこまでしなくてもいいんだけど、仕事は仕事でちゃんとして」
「物の例えでね…それくらいBABYに影響与えてるんだよ、ってこと」



心配いらないよ、僕もBABYも桜月しか見えてないから、と口付けられれば鏡を見なくても顔が赤くなるのが分かる。



「アハッ、顔真っ赤だよ」
「煩い、馬鹿サクラ」
「はいはい、じゃあ帰ろうか。ご飯食べてないでしょ?食べて行こうよ。何か食べたいものある?」
「中華がいい」
「はいはい、じゃあ賢ちゃんに車お願いしようね」



並んで歩き出せば、自然と繋がる指先。
さっきまでピアノを奏でていた彼が今こうして隣にいる。
それもまた、一つの奇跡。


*My BABY*
(これ美味しい…!)
(喜んでもらえて良かったですよ〜)
(何で賢ちゃんまで…)
(連れて来てもらって「ハイさよなら」は失礼でしょ)
(せっかくオンコール外れてるのに…)
(そうだ、桜月さん!サクラさんの昔話聞かせてあげましょうか)
(ちょ、賢ちゃん!)
(あ、聞きたーい)


fin...


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