コウノドリ

□働き過ぎ注意
1ページ/2ページ


久しぶりにマンションに帰れば、生温い淀んだ空気が身体を包んだ。
一週間ぶりだろうか。
しばらく家を空けた時に何より嫌なのが、この淀んだ空気を感じること。
こまめに帰って来られればいいのだが、今回は長丁場になってしまった。
宿直室の住人になりかけていたところを見かねたらしい周産期センター長に声をかけられなければ、おそらくあと3日は病院で寝泊まりしていたかもしれない。

好きで病院に寝泊まりしている訳ではない。
ゆっくり湯船に浸かりたい
部屋の空気の入れ換えもしたい
冷蔵庫の中で干からびている食材も整理したい
そもそも冷蔵庫の中には何か入っていただろうか、確認もしたい
…挙げていけばきりがないほど、家でやりたいことはある。

でも、目の前に患者がいるなら、自分の手で助けられるなら、自分のことなど全て些末なこと。
そうやっている内に帰るタイミングを逃しまくって今日に至る。



「お風呂入りたい……」



さっと浴槽を洗い、給湯を開始する。
シャワーだけは毎日浴びていた。
ただ体が温まらなくて血行が日に日に悪くなっていくのを感じていた。
見かねた小松さんがホットアイマスクの差し入れと温かいココアを淹れてくれたのを思い出した。
コーヒーも飽きたな、と冷蔵庫を開ければ水のペットボトルとアルコール、消費期限の過ぎた調味料、それとチョコレート。



「買い物行ってないしなぁ…」



あまりにも貧相な冷蔵庫の中身に苦笑しながらチョコと水を取り出して扉を閉める。
体が求めている物は違うが、これしかないのだから仕方がない。
チョコの包みを開けながら、AIスピーカーに声をかけてBABYの曲を再生する。
少しずつ心の緊張が解けていく。

暗い部屋で照明も点けずにぼんやりしていれば不意に震える携帯電話。
こんな時間にかかってくるのは病院か、と慌てて表示を見ればよく知った名前。
迷うことなく通話をタップすれば、おそらく外からかけているであろう車の走行音が聞こえた。



『桜月?』
「お疲れ」
『…今日は帰った?』
「今橋先生に帰りなさいって言われたら帰るしかないよね」
『良かった』
「……ごめん」
『何が?』
「ここ最近、迷惑かけた」
『迷惑はかけられてないよ?心配はしたけど』



ずっと泊まりっぱなしだったのは気になってたんだ、と電話越しにも彼が苦笑を浮かべたのが分かる。
この一週間、何度か言われていた。
家に帰って休んでほしい、と。
自分を心配してくれる気持ちを無視するつもりは毛頭なかったが、結果的に無視する形になってしまったのは気がかりだった。
謝ったところで覆水盆に返らず、ということは分かっているが、謝らずにはいられない。



「…ごめん」
「だから大丈夫だって」



何となく気まずい空気が流れる。
その時《お風呂が沸きました》と軽快な音楽が流れた。
その音は電話の向こうの彼にも聞こえたようで



『…お風呂?』
「うん、シャワーは浴びてたけど湯船に浸かりたいと思って」
『ダメ』
「え、」
『桜月、お風呂で寝ちゃうでしょ』
「いや、そんな…さすがに寝ないよ」
『いや、絶対に寝るからダメ』
「そんなこと言われても…」



もう風呂は沸いてしまっているのに入るな、というのはお湯がもったいない。
それに梅雨に入る前だが、既に暑さが忍び寄っているこの時期に手足が冷えているのは明らかに血行が悪くなっている証拠。
だからこそ湯船でゆっくりマッサージをしながら体を解したいというのに。



『…分かった』
「え?」
『今から行くから、それまで待ってて。5分で行くから、ね?』
「いやいやいやいや、本当に!大丈夫だから!」
『溺れたら危ないから。いい?待ってて』



本当に来なくていい、という言葉は通話終了の音声に遮られた。
言い出したら聞かないのは分かっているが、まさか本当にこんな時間に来るのだろうか。
……有り得る。

本来の目的からはズレるが、さっと入って上がってしまおう。
本当に来た時に文句は言われるかもしれないが「ほら見たことか」と鼻で笑うくらいはできる。
そうと決まれば早く行動に移さなければ。
重い腰を上げて、着替えとタオルを持って浴室へと急ぐことにした。

_
次へ
前の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ