コウノドリ

□マスク越し
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家に帰れなくて何日目だろう。
彼女のおにぎり何個無駄にしたかな、と溜め息が出る。
少し前まで一日で摂取した食事がカップ焼きそばだけ、食堂の料理でも十分だったのに、今は彼女の手料理が食べたいだなんて。
人は一つ満たされると次々に欲が出てくるものだな、と心境の変化に驚きを隠せない。



「………?」



何だろう、喉がおかしい。
そういえば頭も痛い気がする。
…………あれ?



































「熱は高いけど風邪ですねー、咳止め出しておきますね」
「ありがとうございます…」



久しぶりに発熱を伴った風邪。
当直室で休ませてもらおう……ゆっくり寝てれば明日には熱も下がるはず。



なんて淡い考えだった。
産科医に休みはない、と自分でも散々言った台詞。
多少体調が悪くてもお産は待ってくれない。
ただでさえ人員不足な産科でゆっくり休めるはずもなく。

仕方がない、帰ろう。
いつもなら歩いて帰る距離だけれども今日はタクシーを使おう。
途中で倒れては元も子もない。




「お客さーん、着きましたよ」
「……ありがとう、ございます」



熱で朦朧とする中、支払いを済ませてエレベーターに乗り込む。
とにかく横になりたい。
熱が上がりきるのを待とう。
冷蔵庫の中に水くらいはあるはずだ。

エレベーターの到着音を遠くで聞いて重い体を引きずって出れば、霞む視界に愛しい彼女の姿が見えた気がした。



「サクラ!」
「……桜月?」
「え、仕事終わり?こんな時間に?」



彼女の声が聞こえる。
そして近づいてくるのが分かる。
帰宅も久しぶりだが、彼女に会うのも久しぶりだ。
でも、今は、


「ごめん…ちょっと近づかないで」
「えっ…」



あぁ、しまった。
もう少し言い方があったはず。
ダメだ、頭が回らない。
熱が下がったら謝ろう。
一刻も早く離れないと。



「ごめん、そうじゃない…。今、僕…熱があって」
「熱?」
「だから…」



離れて、風邪が移ったら大変だから
そう言おうとしたが彼女の言葉に遮られた。



「分かった、はい、とりあえず部屋入って。
あー、私の部屋よりサクラの部屋の方がゆっくりできるかな。
ご飯は?食べられそう?」
「いや、移ったら悪いし…」
「保育士も毎日ウイルスだらけの場所にいるからちょっとやそっとじゃ移らないから、ね?明日、私休みだから看病するから」



でも、それだと桜月の休みが潰れてしまう。
と言おうとするがまたしても流されてしまって強引に部屋に押し込まれてベッドに寝かせられてしまった。
いつの間にか着替えも終わっている。
着替えを手伝ってもらったことすら気づかないくらいに頭が回っていないとは、この状態では彼女に適うはずもないな、と溜め息が漏れた。



「何か食べられそう?」
「本当に…大丈夫だから」
「その姿で言われてもねぇ…とりあえずおかゆ作るからそれまで寝てて」



枕元で彼女が苦笑しているのが分かる。
もっとも目を開けていられなくて声色と伝わる空気感からの予想でしか過ぎないが。
こうなってはもう彼女の言うがままだ。
それでも、彼女に風邪を移すことだけは避けたい。



「…桜月、せめてマスクはして…」
「はいはい、分かったから」



布団をかけ直されて、ポンポンと胸の辺りを優しく叩かれた。
すっかり子ども扱いだな、なんて思いながら意識を暗闇に溶かした。

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