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□想夫恋
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 夜の春日山城を、満月が優しく照らしている。
 草木も眠りにつこうとし、世の中全てが息を潜めたかと思えるほど静かな夜。



「……?」
 寝ずの番として立っている兵士たちは不思議そうに顔を上げた。
 パチパチ、と夜通し焚かれる篝火にくべられた薪が燃える音の隙間から。
 微かな琵琶の音が穏やかな風に乗って聞こえてきたのだ。
「御館様……『朝嵐』の音だな」
 朝嵐とは謙信の持つ琵琶の名をいう。
「ああ。何とお優しい音色だろうか」
 兵士は顔を見合わせ微笑みあったが、やがて不思議そうに首を傾げる。
「いつもは朝聞こえるのに……珍しいこともあるものだ」



 春日山城・天守閣。
 琵琶の音はそこから流れている。

 それが天守閣を吹き抜けていく風に乗って、兵士たちの耳にまで届いたのだろう。
 そこにいて、琵琶を弾いているのはもちろんこの城の主である謙信。
 月明かりとそれを邪魔しない程度の小さな灯りの中、目を閉じたままばちをゆっくりと動かしている。
 傍らに杯があるところを見ると、一杯やりながら弾いていたようだ。
 本気で弾く気はないのだろうか、一つ一つの音を確かめるようにゆっくりと奏でている。



「へー、意外ねぇ」
 そこへ思ってもみない来客があった。
 仕方なく謙信は弾く手を止めて、瞳を開いた。
「……何の用だ」
 すとん、と一番高い天守閣の窓からすべるように室内に入ってきたのはくのいち。
「お命頂戴♪……って言ったらどうする?」
「今貴様が入ってきた場所から外に放り出すだけだ」
 傍らに琵琶とばちを置いて杯を手にしつつ、生真面目に答える。
「ノリ悪ーい……幸村様に似て、相変わらず冗談の通じない人だにゃぁ」
 くのいちは不服そうな顔でぶつぶつ文句を言っていたが、
「……はい、お館様がまたちょっと助けて欲しいって」
 そう言って一通の書状を取り出した。
 信玄が天下を取っても謙信のホームグラウンドはやっぱり越後であった。
 信玄がいくら上洛するように声をかけてもなるべくそこから動こうとしない。
 呼ばれれば上洛するものの、用事が済めばすぐさま越後に引き返す。
 理由は色々あったが、昔よく自分が越後を離れるとすぐ内乱や反乱が起きたために、心配になってしまうのだ。
 そのため、信玄とは中々顔を合わせられないものの、こうして書状のやりとりをこまめにして仕事を円滑に進めている。
「で、渡そうと思ったんだけど……」
「……?」
 急にくのいちは書状を仕舞いこむ。
「酔っ払いにどこかにやられちゃ困るから、明日の朝渡すにゃ♪」
 それを聞いて、杯に手を伸ばした謙信はムッとした顔をする。
「見くびるな。酔ってなどおらぬ」
「酔っ払いって絶対そう言うのよねー」
 にゃはー、と悪戯っぽく笑うくのいちを見て軽く溜め息をつく。
 明日の朝でもいい、ということは緊急の用事ではないのだろう。
「……でも、本当意外よねー」
「何がだ?」
 杯を置いて、再び琵琶とばちを手にする。
「琵琶なんか弾けるなんてv」
「……」
 からかうような声に少しむかついたが、いつものことと諦めた。
「……あれ?さっきの曲はもう弾かないのー?」
「そのつもりだが……」
 別の曲を弾こうかと、音の調整をするとくのいちが不思議そうに訊ねた。
「ええーっ!?さっきの曲がいいー!あたし、全部聞いてないもん!!」
「先ほどの曲……あれか」
 と、謙信は小さく苦笑いする。
「久し振りに弾いてみたが……大分忘れかけていた。そのような下手な演奏を人に聞かせるにはいかぬ」
「えーっ!?うっそー!?」
 それでも聞きたい聞きたい!!!!と暴れるくのいちを見てやれやれと溜め息をついて杯を置く。
「……途中までよければ、弾いてやろう」
「やたっ♪言ってみるもんだにゃ〜♪」
 くのいちはその場にあぐらをかいて座り込んだ。
「やれやれ……」
 琵琶を構えばちを手にする。瞳を閉じて一つ一つの音に神経を集中させる。




(へぇ、こんな顔をすることもあるんだ)
 演奏に集中する横顔を見つめながら、ぼんやりくのいちは思った。
(こうして見ると、結構まともな人なんだけどなぁ)


 奏でられる曲は甘く、優しく、そして切なく……
 月明かりの部屋の中をゆっくりと夜風と共に通り過ぎていく。
 漂うのは幽玄で儚いながらもこの上なく優しい時間。




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