ODAI

□■泣き出したい水曜日
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 ぱちん、ぱちん。




 かすかな、何かを断つ音に違和感を覚える。

 ふと眼を覚ますと、隣の布団にいたはずの人の姿はなく。

 頬を優しく撫でる風に、寝返りを一つうって縁側の方を向くと。

 障子を開けて、縁側に腰掛けたあの人がいた。





 ぱちん、ぱちん。

 音はそこから聞こえてくる。

 ああ、そうか、爪を切っているんだな、と。

 起き上がることもなく、阿国はその背中をぼんやり見つめた。

 半分光に照らし出され、半分闇に隠れている大きなそれを。



 なんて大きな背中。

 そして、なんて小さな背中。

 今すぐにでも起き上がって、抱きしめたいような。

 ……もう少し、こうしていたいような。



 やがて音が止み、今しがた爪を切り終えた左手を満足そうに空にかざし、一つうなずくと、

「……起こしたか」

 振り返ることもなく、そう声をかけてきた。

「……もう少し、寝ていてもよい」

 少しきりすぎてしまったのか、首を少しひねって親指でしきりにどこかの指を撫でている。

「……いいえぇ」

 阿国はむくり、と起き上がるとその背中に声をかける。

「もう……大丈夫」

「ん」

 その返事を聞いて、満足そうな短い返事をすると逆の手の爪を切り始めた。

 ぱちん。



「……さっき起きたとき」

 かすれた声で、阿国がつぶやいた。

「……ん?」

「少しだけ、怖かった」

「……何がだ」

「謙信様に会ったこととか」



 ぱちん。



「昨日、一緒にご飯食べたこととか」



 ぱちん。

 爪を切る音がするたびに、何だか大きな背中が遠く、かすんでいくような気がして。

 思わず阿国は体を震わせた。



 怖い。悲しい。苦しい。

 何が、と説明するのは非常に難しかった。

 ただ自分が何かに対して、恐れを感じていることだけ阿国にはわかった。

 なんでもない、外では雲が穏やかに流れ、部屋の中を通り過ぎる風も、心地よいものだというのに。

 それが今は反対に、酷く酷く恐ろしく、不安で、もろいもののように思えた。



 怖い。悲しい。苦しい。

 何か恐ろしいものが、この部屋を、二人の間を、この世界を覆いつくしているような気さえした。





「こうして、一緒にいることとか…………!」

 そう言たとたん、瞳から透明な雫が落ちて染みを作った。

 ぱちん。







 夢のように思えて、という声は声になることはなく。



 のどの奥で、つぶれて消えた。





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