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□モラトリアム
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――――ついてない。
謙信は一つ、ため息をついた。
彼の周囲にいるのは、帰宅ラッシュで電車を待つ人、人、人の群れ。
これが街中の駅だったら、ぼんやり空や月でも見あげて暗い気を紛らわせることもできるのだが……残念ながら、ここは地下鉄。
薄暗いホームには見慣れた電光掲示板やくたびれた広告しかなく、目を楽しませてくれるものは何もない。
(……おのれ、姉め)
同居している姉の顔を思い浮かべて毒づく。
実家住まいの謙信は、母と姉と暮らしている。
その姉が、今朝勝手に彼の車を運転して出張に出かけてしまったのである。しかもご丁寧に「借りるね(はぁと)」と書置き一つだけ残して。
おかげで人ごみが苦手だというのに謙信はこうしてラッシュに巻き込まれ、押し合いへしあいされながら仕事に出かけ、再び押し合いへし合いされつつ疲れた体を引きずり帰ろうとしている。
が、彼は気づいていない。
そのずば抜けた身長と体格の良さ、父親譲りの三白眼に目つきの悪さにへの字口、しかも坊主頭で黒スーツというとっても目立つ(いい意味でも悪い意味でも)姿から人々がわりと距離をとっていることに。
(……覚えとけ)
眉間に皺を寄せると更に人々がざわりと一歩彼の周囲から遠ざかる。
が、やっぱり本人は気づいていない。
(「怖っ……!」)
(「あっちの世界の人か……?」)
(「目をあわすなよ、何言われるかたまったもんじゃないぞ」)
そんなヒソヒソ話なんてまったく耳に入っていない。
今、彼の頭の中にあるのはただ一つ。
(……む。そういえば今日は夕飯当番だったな……何にしよう)
極めて家庭的な悩み……夕飯の献立、であった。なお、上杉家の家事は全て当番制となっている。
上杉謙信。
見てくれは怖いが、彼の思考はフツーの一般人だった。
『―――線に電車が参ります。白線の内側までお下がりください』
機械的な女性の声。
同じホームの反対側に電車が到着した。
一気に人が降りてきて、ただでさえやかましいホームが更に人で溢れ、騒々しさに耳を覆いたくなる。
『押さないで順番にお降りください。―――線にお乗換えの方は○○ホームにお急ぎください』
やかましさに負けないよう怒鳴り声を上げている駅員のアナウンス。
それと同時に軽快な機械音がして、
『―――線に電車が参ります。白線の内側までお下がりください』
(やっと来たか)
やれやれ、と順番に並びながら何となく、せわしなく走り去って行く人々の群れを目で追いかける。
ある人は乗り換えの電車を目指して走り、ある人は携帯電話で何事か話ながら走っている。
時間に追われているせいか皆アナウンスなんて聞いていないように、白線の外側にまではみ出して走って行く。