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□龍のあぎと
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「こりゃまた派手にやられたなぁ」
「……」
呆れ顔の弥太郎の前では、頬に真っ赤な手形を作った謙信が机に向かいもくもくと書類整理をしていた。
その表情はまったくいつもと変わりなく、落ち込みもせず戸惑いもせず気にしていないような様子であった。
阿国の姿は部屋にはない。
先ほど謙信に強烈な一発を食らわせると、怒ってどこかへ行ってしまった。
「でもなぁ、まさかなぁ」
謙信にじりじり近寄ると、肩にひじを置いて顔を覗き込んだ。
「お前が阿国殿に手ぇだそうとするなんてなぁ」
人の悪い笑みを浮かべ弥太郎がそう言うと、
「阿呆」
ごっ。
「ぶっ」
弥太郎の額に裏拳を食らわせると、謙信は筆を置いて弥太郎をにらみつけた。
「貴様……我がそのようなことをすると思うのか?」
「だって手ぇ出そうとしたじゃん」
「……誰とて、仕事中に隣でいつまでもしゃべり続けられたら辟易するだろう」
仕事中の謙信のところへやってきてから、はや一刻。
阿国はひたすら彼の隣で旅の話を話し続けていたのだった。
さすがに最初は興味を持っていて聞いていても、段々疲れてくるし何より謙信は仕事中なのである。
「仕事も滞る」
「ふうん」
弥太郎は興味深そうに返事をすると腕をはずして胡坐をかき、頭をかいた。
「それもそっか」
「……大体、あの女に誰かが手を出そうものならそやつの命はなかろう。一体この日の本の男の何人があの女に惚れているのやら、検討がつかぬ」
阿国が越後に来るたびに、彼女の話の中には謙信が知らない人物の名前が増えていく。
男の名前も女の名前もどんどん増えていく。
「……そんなややこしいことに付き合ってはおられぬ」
(かつて海の向こうにあった古い国は、王が一人の女の色香に狂わされたため滅んだと聞く)
――そんなのはゴメンだ。
「だから」
再び筆を取り、
「あまりにうるさいのを注意した……それだけだ」
そう言って謙信は机に向かいだした。
「ま」
謙信の認めが入った書類を手に弥太郎は立ち上がって伸びをした。
「そういうことにしておいてやろう」
「……好きにしろ」
ため息をついて謙信は今しがた出来上がった、兼続宛の書状に封をした。
「でもさ」
出て生き様、弥太郎が謙信を振り返って言った。
「そんなことして惑わせてると、そのうち阿国殿に愛想尽かされるぜ」
「……そなたもうるさい」
「へいへい」
弥太郎は軽く手を振って部屋から出て行った。
「……」
残った静寂の中阿国に殴られた部分をなぞり、
「……その方がありがたい」
謙信は遠い目をして呟いた。
『愛想尽かされるぜ』
その喉元に喰らいつく前に。