鋼鉄

□屈折サディスト
1ページ/2ページ




何か、記憶の神聖な部分を汚されたという気がした。








「何。僕とは入れないって言うの?」

声にはドスが効いていた。
魯粛は文官であるため直接戦場、所謂前線と言われるような直接敵と遭遇し斬り合う、そういう場に居合わせたことはなかったが、この時の気持ちは恐らくそういった兵士の気持ちに近い。まさに蛇に睨まれた蛙。そういう問題じゃない、という反論も思わず喉の奥に吸い込まれる。

随分夜も更けていた。

あの日と同じように星が綺麗な日で、またあの日のように魯粛は誰にも会わないだろうと思いながら湯殿に行ったのだ。

そこで会ったのが、何故か、何故か、既に一度荊州南部へと諸葛亮と共に去った筈の趙雲であった。とんだ敵将に出くわしたものである。

「あの…、そのっ」

「何?」

この男の神出鬼没さはいつものことだったが、今回ばかりは何故此所にいるのか、問い掛けられずにはいられない。タオル一枚としっかりと着替えを横腹に抱え脱衣場に仁王立つその姿は明らかに魯粛が此所に現れるのを待ち伏せていたように思える。

「その一緒に、とは…?」

「風呂に決まってるだろ」
当然、というように魯粛の手を取り、趙雲は湯殿に直行しようとする。魯粛は反射的にその手を振り払った。そうしてしまったことに特に意味はなかった。ただ突然とられた行動にびっくりしただけだ。しかし拒絶と取ったのか、その瞬間から趙雲の機嫌は明らかに急降下し始めた。

「何?諸葛瑾とは一緒に入れるのに、僕とは一緒に入れないって言うの?魯粛チャンは」

「な、なんで貴方がそれを…っ」

知っているのか。
あの時の記憶は魯粛にとっては多少気恥ずかしい思い出である。しかしそれと同時に、『二人だけの記憶』というわけではないが、誰にも侵されない一種の神聖さを帯びたものであった。自分の中で認識する諸葛瑾という人物はほぼあの時の記憶で構成されていると言っていい。

それを他人に知られている。

そう思うと、思わず感情がそのまま表情に出てしまった。顔がひどく熱い。きっと真っ赤になっているのだろう。何処か頭の隅で冷静にそう思った。

「……ふーん、やっぱりそうなんだ」

「な、何がです…?」

しかしそんな魯粛を見て、普段なら嫌になるくらい楽しそうな笑みを浮かべる筈の趙雲は何故か眉を寄せて酷く不機嫌そうな表情をしている。声もいつもよりも一段と低い。

自分は何かしてしまったのだろうか?

焦る頭で考えるが、分からない。しかしとにかくこれ以上怒らせては拙いということだけはなんとなく、本能的に悟った。

「孔明様に手が届かないから、諦めて手の出しやすい手軽な兄に乗換えたってわけだ」

しかし、たった一言。
それだけで一瞬にして冷静な思考が吹き飛んだ。

「貴方に何が分かるんですか…!」

何か、記憶の神聖な部分を汚されたという気がした。

嘲るように放たれたその言葉は明らかに諸葛瑾への侮辱も含まれている。

魯粛の怒号に趙雲の眉間の皺が深くなる。しかし、もう構わないはしなかった。

孔明は孔明、諸葛瑾は諸葛瑾だ。そんなことも分からない人間に彼を侮蔑する資格などない。

「知らないね」

血の上りきった頭に怖いくらいに冷めた声が響く。しかし魯粛も既に趙雲に対して冷めきっていた。
人の機嫌を損ねてしまうことに敏感なのは確かに人付き合いが苦手だという意識によるものだが、嫌いな人間に対してもその感情が働くほどお人好しでも八方美人でもない。

「だったら…、」

口を挟むなと言いかけた瞬間、趙雲が動いた。否、動いたと分かったのは肩と背中に衝撃を感じてからだった。

身体中が痛い。やけに息苦しいと思ったら趙雲の腕が首を押さえ付けている。それで、ようやく突き飛ばされ壁に押しつけられたのだと分かった。

分かったのは、それだけだ。

「っ、…」

顔を上げて、魯粛は息を呑んだ。

酷く冷めた目がそこにはあった。こちらをからかい、楽しんでいるような、いつも目ではない。ぞっとするほど冷たく、無機質だった。恐らくこれが怒りを感じている時の、趙雲の目なのだろう。嘲りや冷笑の目は向けられてもこんな目を向けられたことは今迄に一度だってなかったということに魯粛はようやく気付いた。

「アンタ達のことなんて、知りたくもない」

低い声は喉の奥からまるで何かに噛み付くように発せられた。趙雲の言う“アンタ達”がただ単に自分と諸葛瑾のことを指しているのか、それとももっと別の大きなものを指しているのか、魯粛には分からなかった。










【屈折サディスト】




思考回路は理解不能



.
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ