鋼鉄

□16.7℃
1ページ/1ページ




どうして此所はこんなに暖かいんだろう。鼻腔を突く春の匂いに閉じていた瞼をゆっくりと押し上げる。草の匂いに混じって微かに甘い匂いがする。百合だろうか。生暖かい風に乗って春が頬を撫でた。

朱塗りの柱に染み一つない白壁が眩しい。さわさわと視界の端に揺れているのは桜だろうか。それだけ確認して再び目を閉じる。

―…ああ、まだ堪っていた執務があった筈だ。やらなくては…

しかしまだ眠い。人の気配もない。此所はこんなに静かだ。目を開けるには早い気がした。

どうしてこんなに暖かいんだろう。頬を撫でる春が恨めしい。いつまでもこのまま目を閉じていたくなってしまう。

そう考えて、ふと、違和感を覚えた。

一体いつの間に春が来てしまったのだろう。仕上げなくてはいけない書類の中にはこれから冬を乗り越える為、春に向けての屯田に関する報告書があった筈だ。

何か、大切なことを忘れている気がした。

そういえばどうして此所はこんなに静かなのだろう。人の気配がまるでない。家の者が誰かいれば物音くらいはする筈だ。そう考えてまた何かが引っ掛かった。

家…?そういえばここ最近は忙しくて官庁にある執務室に泊まり込んでいた筈だ。いつの間に私邸などに帰って来たのだろう。


ザアアア、と突如耳元で風が鳴って聴覚の一切が奪われた。

まって、

こぼれ落ちて繋がらない記憶の断片を掻き集めるには、足らなさすぎる。

無意識のうちに口からこぼれ落ちたその音は耳には聞こえなかった。待って、まだ目を開けたくない。確かめたくはない。

尚も巻き上がる風が髪をぐしゃぐしゃに掻き乱していく。ざわり、と胸が騒ぐ。一緒に飛んできた桜の花びらが数枚、口の中に飛び込んだ。

同時に風が止んで、




「いつまで寝てるの」




降ってきたその声に、何故か泣きたくなった。

じわり、と全身を満たされる感覚。

久しぶりに聞いた気がするその声を、ずっと此所で待っていたのだと、その時になってようやく気が付いた。

「早く起きなきゃ、食べちゃうよ?」

意地悪な笑い声、強引で温かい腕、

胸にはきっと、紅い華が咲いている

確信に近い思いを感じながら目を開ければ、やはり最期に見た時と同じ、手に短剣を抱いて笑う趙雲と目が合った。



++++++++++

唐突にこういうのが書きたくなるのはやっぱりシアスキーだからなんだろうなと思います。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ