帰りの夕日な文!

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(※第三話 竜河連載/遊郭パロ。)












どたばた。
障子の向こうは慌しかった。もうじき朝だがまだ日も上がっていない。客はもちろん寝ている。客のうちの一人、黒い着流しを着た男は廊下の慌しさに起きてしまった。これでは眠れやしないと文句のひとつでも言おうと、男は欠伸をしながら廊下に出た。庭に咲いてある杏の花の香りが漂う暗闇の中、男の背後に誰かがぶつかってきた。慌しい足音を出していたうちの一つが止まった。

「いてっ!」

尻餅をつく音と共に、男は振り向いた。そこには鼻を押さえた石松がおった。昼の石松とは違ってすぐさま立ち上がっては頭を下げる。ぶつかった相手は客だ。失礼がないようにしなくてはならない。

「申し訳…、ん?志那虎の旦那じゃねぇかい?」

持っていた提灯を上げ、石松は客の顔を見た。

「石松か」

黒い着流しを着た男は志那虎と言って、商家の長男だ。石松と違って背が高く、それに剣術もやっているのだから背筋も良く貫禄もある。ただしひとつ問題があった。

「言っておくが、俺はまだ旦那じゃないぞ。父上が現役だ」

少しばかり拗ねた口で志那虎は言った。この男、まだ歳は二十前なのだがその歳に見られない。

「おっと!いけねぇいけねぇ。志那虎の若旦那!」

わざとらしい石松に志那虎は溜息をつけるのだが、小さく笑った。志那虎と石松は客と客引きの関係だが、友と呼べる合い柄である。さっきまで緊張していた石松はそこにはいない。友との再会に喜んでいる姿があった。志那虎も同じ気持ちなのだが、慌ただしい廊下を見て思い出した。

「ところで。さっきの騒動はなんだ?」

「あぁ、花魁が客の寝てる間に逃げたんだと」

石松は呑気に話すと、大きな欠伸をした。その落ち着きっぷりに志那虎は眉毛を歪ませた。今も暗い廊下では提灯の明かりが揺れているのがよく見えた。

「おめぇさんはあんまり驚かねぇんだな」

「よくあることだからな。どうせこの時間じゃあ大門は閉まっている。逃げられるわけねぇよ…。この吉原からは。」

物思いにふける石松に志那虎は悟った。ここで働いている者にしかいえない言葉。志那虎は石松の左目にある傷に注目した。眉から頬にかけて、一本傷がある。これは刀傷だ。すると、その目がこちらに向いた。

「吉原から出るには、身請けしてもらうか、借金を返すか…もうひとつ」

志那虎の眉が微かに動いた。その時、風が吹いた。庭に咲いてある杏の花の香りが漂う。しかし、首をもがれるように杏の花がぽとりと落ちた。石松は目を細めて言った。

「死んじまうこった」







杏の漂い









 鳥さえまだ鳴かぬ夜、二人の影が動いていた。その影は川から上がったばかりの竜児と河井であった。二人は人目に付かぬ木の裏に隠れると、ちょうどそこへ男衆らが数人走って来た。男衆らが探しているのは逃げ出した花魁の河井だ。そっと木の影から竜児は見渡すと、提灯の明かりがあちらこちらに見えた。少しの間待つと提灯の明かりらは遠のいて行った。違う場所を探しに行ったらしい。胸を撫で下ろした竜児だったが、横にいる河井は下を向いて黙っている。さてどうしたものか。本来なら竜児は逃げた花魁を突き出さなくてはならない。それをしないのは同情か優しさか、それとも。

「君は…」

意外にも先に口を開けたのは河井だった。

「貴子姉さんを知っているのか?」

竜児がつぶやいたことをしっかりと河井は聞いていた。顔が似ているだけで発した名前だったがどうやら本当に貴子花魁の弟のようだ。河井の目は泣いたせいもあって赤い。ただ美しさは変わらなかった。竜児はゆっくりと頷いてみせた。

「うん、知ってるよ。俺と姉ちゃんを育ててくれた方だったから…」

「……。」

「初めて知ったよ。貴子おいらんに弟がいたなんて」

少々竜児は興奮気味に言った。なんたって貴子花魁と血を分けた人と会えたのだ。しかし、河井の表情は変わりはしなかった。むしろ嘲笑っていた。

「ふっ、このことは秘密にしていたからな」

思わず竜児は「えっ」と驚いた。

「僕らの関係は公にしてはならないこと。貴子姉さんは花魁の最高地位の太夫、それに比べ僕は陰間だ。そんな肉親がいると知られれば評判が落ちてしまう…だから。」

「……。」

「会うことも抱きしめてもらうことも許されなかった。唯一許されたことは文のやり取り。姉さんの文だけが僕の励みだった。嫁いでしまわれても姉さんは文を送ってくれた。それなのに…っ!」

最後は感情がこもり、拳を振るわせる。突然貴子花魁は病死してしまった。河井は絶望し、客の寝てる間にこの川まで来て命を絶とうとしたのだが竜児に阻まれてしまった。唇を痛いほど噛み締める河井に、竜児も目を伏せた。知らなかったこととはいえ、そんな辛い状況に立たされているとは思いもよらなかった。竜児と菊、貴子と河井、同じ"姉弟"でいながら生きる世界は全く異なっていた。

「僕に未練はない。吉原から出ることも、姉さんにも会えないのなら…この命…もういらない…」

ふらりと河井が立ち上がった。竜児は聞き閉まっていて気付いた時には河井の体が傾いたところであった。また川に落ちようと、命を絶とうとしているではないか。竜児がすばやく河井の腕を掴んだ。川との境界線で二人は天秤のように揺れる。どちらに傾くのかわからない状態だあった。河井は再び目尻に涙を溜めている。しかし、いまにも竜児に噛み付くような怒りを向けていた。

「離せ!僕は死にたいんだ!」

「駄目だ!貴子おいらんが悲しむ!」

「姉さんの元に…っ!」

ぐん、と力強く竜児が河井の腕を引くと勢いよく抱きしめた。濡れた着物がべたりとくっつき、人影が一つになったようにも見えた。落とすまいと、離すまいと竜児は強く抱きしめている。痛いぐらいであった。

「離せ…っ」

竜児の腕の中で、河井は呻くのだが竜児の力と温もりに目を見開いた。なぜこんなに彼は必死なのだろうか。初めて河井は竜児をしっかりと見た。竜児は声ではなく行動で訴えていた。泣き出しそうな面をして竜児は声を震わせた。

「あなたを橋で見かける前に貴子おいらんの声が聞こえたんだ…空耳だったのかもしれないけど、こうして会えたのはきっと貴子花魁があなたを助けたかったからだと思う。だから…っ」

泣いたのはいつぶりであろう。竜児はしゃっくりを上げると共に肩を揺らした。

「俺もあなたに死んで欲しく、ない…っ!」

幼き頃、泣かないと決めていたのに涙が溢れていた。貴子花魁が死んでしまったことに実感したのだろうか。それとも河井の悲痛な叫びに同情してしまったからなのか。いや、両方だ。竜児らの親も死んでしまった。あの時の悲しさは忘れることが出来ない。河井は抵抗していた腕をだらりと下げた。それは諦めの印でもあった。竜児の言っていることは嘘とも取れるような内容であったが、河井は信じた。嘘を言っているようでもない。例え嘘でも竜児の必死な声は信用なるものがあった。

「…すまなかった」

観念したかのように河井は言った。竜児はゆっくりと腕を離すと、そこには緩やかな表情をした河井がいた。思わず竜児は見とれてしまった。初めて見る優しい河井の顔がそこにはあった。

「河井さん…」

「君には負けましたよ」

河井は涙で溜まっていた目尻を一指し指で拭くと、竜児も自分の顔が濡れていることに気が付いた。腕で拭う。その動作に河井は竜児を見てくすりと笑った。照れ臭くなって竜児は頭を掻いた。同じ男のはずだが、やはり花魁の河井からは気品があった。涙を拭く仕草や、愛らしい笑みひとつで竜児は見惚れてしまう。二人の目が合った。竜児は自分の胸を掴む。鼓動が早いのが嫌でもわかってしまった。

「(ああ、この人に心臓を持ってかれたんだ、俺は)」

河井の長い睫毛が下を向いてから、また上に上がる。その黒い瞳には竜児しかいない。二人の顔が近づいた。唇が重なろうとした、その時であった。向こうから誰かが走ってくる音がするではないか。河井がすぐさま振り向き、確認すると再び竜児に顔を向けた。

「助けてくれたお礼だ」

河井は竜児に微笑んだ。しかし、その微笑みは切なさがあった。突然河井は座り込むと、竜児の腕首を掴んだ。慌てて竜児もしゃがみこんだのだが河井は突然叫んだ。

「離せ!」

一体どういうことなのだろう。手首を掴んでいるのは河井だ。頭で理解する前に河井の声のせいで提灯の明かりが二人に近づいて来た。とうとう男衆に見つかってしまった。竜児は何も言えず、額に汗をかいた。ところが男衆は竜児を見るとなぜか満足げに笑ったではないか。

「よく見つけたな」

男衆の一人が竜児に言った。そこでようやく竜児は理解する。河井は竜児に捕まったように見せたのだ。花魁をかくまったことが知れたら竜児は罰を受けなけらばならない。それを防ぐため河井が演技をした。竜児に罰を受けさせないために。

「あ…」

何か言おうと竜児は河井を見たのだが、男衆に強引に腕を引っ張られたところであった。男衆らはよくやったと竜児の肩を叩き、褒めるのだが竜児の心は河井にあった。河井は男衆二人に連れてかれた。男衆の三十は過ぎている男が河井の両腕を背中に束ね、掴んでいる。

「彼の名は…?」

河井は腕を掴んでいる男に竜児の名を問うた。

「なんだ、恨むのか?」

「まぁ、そんなとこです」

これから罰を受けるというのに河井には余裕があった。気に食わない、と腕を掴んでいた男が掴む力を込めた。痛いと呻きそうになったが河井は唇を噛み締める。しかし、河井は男でも花魁だ。流し目を向けると、側にいたもう一人の若い男がごくりと唾を飲んだ。もう彼は妖しさと美しさの虜だ。あっさりと若い男は答えてしまった。

「あ、あぁ。あいつは確か、高嶺屋の…なんだったかな。りゅう…うーん、思い出させん」

「(高嶺屋の、…)」

河井は微かに振り向いた。もう竜児の姿は小さく見えた。竜児も男衆らに連れてかれる河井の背中を見送ることしか出来なかった。その頃、ようやく重い大門が開いた。辺りはいつの間にか朝になっていた。













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前回からいつぶりの更新なんだ…っ。すみません。某ねずみ映画並の加速恋愛にします。
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