帰りの夕日な文!

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(※第四話 竜河連載/遊郭パロ。)







叶わぬ望みだとわかっておりました。
あれは二年も前のことだった。酷く寒い夜のこと。河井は布団の中でそう言って泣いた。いまでも覚えている。優しく頭を撫でるあの優しい手を覚えている。河井は小指を差し出した。ひとつ、約束をしてください。
どうか―。



河井はゆっくりと目を開けた。起きながらにして夢を見ていた。酷く懐かしい。現実に戻れば、相変わらず景色は男だった。格子の外で男らが好意の目でこちらを向けているが河井は遠くを見る。遠くにいる鋭い目が河井の目と合った。何かを訴えるような鋭い目に河井は目尻を熱くする。その人物に手を伸ばしたかったが、代わりに着物の袖の中で小指を強く握る。ただ静かに、気付かれぬように無表情を保っている。あっという間にその目は流れて行ってしまった。夏だというのに涼しげなその人物に、河井の心は熱を上げるのであった。











紫陽花の予感












 眩しいほどの日差しの中、竜児は額の汗をぬぐった。出店には旬の野菜が瑞々しく光っている。竜児は何個かそれを買うと、すでに籠一杯のところに野菜を入れた。頼まれた買い物は終了だ。籠を背負ってから茶屋に戻ろうと歩み進めた。
 あれから季節は春から夏になった。河井とはずっと会っていない。あの夜の後、竜児に待っていたのは褒められるのと叱られるの両方だった。仲間の男衆には花魁をよく見つけたと褒められ、楼主には朝の仕事もせずさぼるなと叱れてしまった。ただ竜児にはとってはどちらもどうでもよかった。河井のことが気になってしょうがない。幾日か経って、石松から河井の噂を聞いた。脱走した罰で水責め、火責めの散々なものだったと。しかし、一声も発しなかったという。

「(あの方はお元気だろうか…)」

竜児は上を見上げた。河井がいる茶屋の前だった。初めて二人が出会った場所。二階の窓は開いてはいるが河井の姿は見えず、花も流れてくることはなかった。竜児は残念そうに溜息を吐いた。一目だけでも河井を見ておきたかった。淡い期待も持っていたことに竜児は気付くと首を横に振るった。足取りを重くしながら歩く。
すると、突然竜児は胸を高鳴らせた。この香りはどこかで嗅いだものだ。お香の独特の香りと、体臭。竜児は顔をすぐさま上げると、香りがする方向に顔を向ける。そこには、ああやはり、と竜児が納得する人物がおった。河井だ。客と並んで歩いている。陰間が外を歩くとは珍しい珍しいと竜児のほかにも周りの注目の的だった。高い金を積まぬと外には出れぬ存在。竜児あの日以来、初めて河井の立派な着物姿を見た。あの時は柄もない紫色の単着物だったが、今は白の生地に紫や薄い青色の紫陽花が大きく描かれた着物。それに金に光る大きな簪が輝いて見えた。しかし、それらは所詮河井の飾りでしかない。河井自身に竜児は輝きを見た。河井は竜児に気付いている様子もなく、客とお喋りをして小さく笑みを零している。竜児は胸を撫で下ろした。

「(良かった…元気そうだ)」

竜児はもっと河井を見ておきたかったが歩き出した。河井は仕事中だ。竜児は河井の横を通り過ぎる。再び香りが漂ったが、これは河井の体臭だ。川に落ちた時もそうだが、この香りは取れないもの。花魁は風呂に香料を入れ身に染み込ませる。その香りだった。竜児は目を瞑って唇をつぐんで、すぐに立ち去ろうとした。

「ちょいと」

一声に竜児は足を止めた。この声は、竜児は早く振り向いたつもりだったがゆっくりにも思えた。声を掛けたのはもちろん河井だった。うすく微笑んでいる。

「鼻緒が切れてしまって…、どうにかしてくれません?」

「あ…はい」

河井が指を指したそこは下駄の鼻緒が解けていた。客にさせるわけにもいかない。竜児は背負っていた籠を下し、しゃがんだ。そのままの格好で竜児は鼻緒を直す。この間ずっと河井は客に扇子を扇いでおり、竜児は胸を高鳴らせていた。このお方はこの胸の高鳴りに気付いているのだろうか。呼び止められたのは偶然だったのだろうか。

「(河井さん…)」

竜児の意識はそればかり。鼻緒を直し終わると、名残惜しそうに手を放す。ふと上を見上げれば、白い手が差し伸べられていた。手の向こうには河井が微笑んでいる。竜児は自然に河井の手を取ると立ち上がった。手は二人とも熱かった。

「ありがとう」

「いえ…、どういたしまして」

河井と客は手を取ると竜児とは逆の道を歩き出した。少しの間の出来事だったが、竜児は嬉しかった。花魁を身請けすることも、ああやっ花魁を連れて並んで歩くことも出来はしないが充分だった。声を聞けて、顔を見れて良かった。高望みなんてしない。竜児は野菜を背負うと軽い足取りで茶屋に帰っていった。
そこへふわり、と煙がひとつ。煙管(きせる)の煙だ。鋭い目が竜児を捕らえていたが、本人は気付かず通り過ぎて行ってしまった。煙管を持つその男は青い着流しを崩して着ている。煙管の灰を地面に落とすが、重なるように雨水が落ちた。灰は泥に変わる。空には黒い雲が眩しい太陽も青い空をも覆ってゆく。鼻につく雨臭い匂いに男は顔をしかめたが口の端はつり上がっていた。

「あぁ、くせぇくせぇ」

面白おかしく男は呟いた。煙管を再びふかせるが火皿に見事雨水が落ち、火が消える。次第に雨は強くなっていく。

嵐が来る―。
外にいた竜児も河井も、そしてこの男もそう思った。

嵐を合図に一波乱の幕開けでもあった。














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誰だかわかりますね、そうあのひとです。
120814 

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