長篇:箱館 novel

□いざ、蝦夷へ!-第2幕-K
1ページ/1ページ

ケガするぜ


「鷲ノ木上陸後、各自速やかに行軍を開始すること」

外はゆったりとした波。
津軽海峡を出た太平洋の沖合いを浮かぶ開陽丸の船内で、榎本はペシッと差棒で地図を準る

「大鳥くんを指揮隊長に、右縦隊五百名は森町、峠下から大野本道を進軍」

「承りました。土方くんは左縦隊五百名を連れて、森から砂原、下海岸を通り川汲から湯の川に降りる訳だ」

「本隊は?」

「本隊の指揮は、古屋くんと松岡くんの二梯団で右縦隊の後方に…」

「お3人さん。何事も無さ気に話を進めてますが、周りの状況が見えませんかね?」

地図を眺める榎本、大鳥、土方の近くに居た松平が
静かに煙管を食わえながら、榎本の肩をツンツンと突いた

そこで漸く顔を上げた榎本が辺りを見ると、
話を聞いている星やその他の数名が浮かない顔をしている

「なに?」

「オェっ…ちょっと、揺れがキツいんですけど…よく平気で下向きながら立っていられますね」

「酔うのは仕方無いよ、星くん」

「10日以上も乗っていたのだ、いい加減に慣れただろ?」

ケロッと抜かす大鳥に
ごく一部から「アンタほど図太くねぇよ」
との非難の目線だけが集まった

「仕方無いなぁ〜。一旦、軍議は休止にするから。風に当たれば楽になるよ」

榎本が言った途端、殆んどの者が待っていました、
とばかりに部屋を飛び出し
揺り籠の如く揺れている廊下を駆けずり行ってしまった

「ところで榎本さん…」

「土方くん、君は平気なんだな」

今までの会話の最中も何食わぬ顔で
一人、地図とにらめっこしていた土方の肩を大鳥は軽く叩く

「軍議はまた後で。君も甲板で一先ず休んでくれば?」

「俺は揺れより寒い方が苦手だ」

「私も同感だな。と言う事なので部屋に戻りますね」

「それじゃ僕も。荒井さんもどう?」

「そうだな」

酔いの“よ”の字も見せない松平はそれだけを残すと会議室を出て行き。
大鳥と荒井もそれに便乗して数少ない西洋囲炉裏のある部屋に行ってしまった

「そう言えば、さっき何か言いかけてた?」

二人になった部屋で
何気無く外を眺めながら榎本は、軍議が終わり机の上に行儀悪く座る土方に問う

「上陸して直ぐ戦闘になるのか?」

「さぁね。まずは箱館府と松前に嘆願書を出して。戦闘はその返答次第ってこと」

窓越しに見た土方の眉間の皺が心なしか深まる

「君は、そんなに戦がしたいの?面白く無さそうな顔だね」

「俺のやるべき事だからな。そうじゃ無きゃ、こんな北の外れまで来た意味が無ぇだろうが」

フンと一つ鼻を鳴らす土方に、
榎本は満足そうな笑みを満面に浮かべ。土方の間近に迫る

「我らの軍神様はやる気があって結構。頼もしい限りだよ」

少し茶化すよう言う榎本は、更に笑みを深めた

「余り不本意じゃ無いけれどね…。きっと箱館府もとい津軽と松前は、嘆願書を足蹴にするよ。だから少なくとも小競り合いは必至だと思う」

「…分かってンじゃねぇか。アンタのやり方は回りくどくていけねぇ。直接、このまま箱館に行かない事も含めてよ」

それについては、さんざん榎本から説明をされたが。
国際法だの何だのと用語を羅列されるばかりで、
上手く真に理解出来たと土方が言えないのも無理は無い

「君の自慢の武力を、敵を捩じ伏せて侵略する為に使おうとは思ってないよ。あくまでも、君の力は目的を果たすのに必要不可欠な防衛手段の一つ」

言いながら土方の隣に榎本も机上に腰を降ろす。
建物と違い手狭な船内の一室では
机一つ有れば事が足りるため会議室と言っても椅子が無いのだ

「五稜郭へ無事に着けば、直ぐにでも松前、江差方面にも向かうだろうけど。目的が有ると、それを成し遂げ守る為の力は必要だからね」

「アンタには大阪を含め二度も恩義を受けたからな、少しは協力するが。そんな大それた目的の為に、此処に着いて来てまで戦うつもりじゃ無ぇ。俺の目的は俺で決めてある」

「うん。今は近藤さんの敵討ちでも何でも構わないよ。言葉が悪いけど、それを利用させて貰えるからさ」

不意に榎本は真横の土方を覗き込むと、
地図を眺めるその口元に一瞬だけ己のを触れさせた

眼を丸くさせる土方はその瞬間、ちゅと微かな音を聞いただけで何が起こったのか分からずに思わず黙ってしまう

「君が、覚えておけって言ったから忘れてなかったんだけど…。それに、船を降りたらまた暫くは会えないもんね」

呆気なく不意を突かれてされてしまった土方。
しかも榎本からと言う嬉しい限りな事だが

こんな事になるのなら先日の己の苦労は何だったのか、と今更ながら問い掛けつつ、
気付けば己の手が無意識に伸びている

それを静かに榎本の顎にかけた

「そうだったな。出発の餞別代わりになるか?」

冗談めいた言葉で笑いを誘いながら口付けをする

今回こそは、その瞬間は穏やかで安堵したのは束の間…




「左前方ーっ!駒ヶ岳確認ッッ!!」

ドドドドドドドドッ

「「ッ゙!?」」

声が船内中に響き渡った途端、横波をまともに受けたかのよう船が大きく傾き。
ドテン!!と二人一緒に座っていた机から転げ落ちた

因みにその瞬間ガチンっ!と唇どうしが衝撃で激しくぶつかってしまい。
切った唇が痛いのか、
バランスを崩して床に打ち付けた体が痛いのか分からない

「%#◎◆〓※▼…!」

「っ、痛ぇ─…何だよ今の!!」

榎本は声も出せず痛みに悶え、その上に被さるよう崩れてしまった土方が
口端から血を流しながら状態を起こして辺りを見る

その真上の甲板では、
今までの船旅で腐っていた陸軍が一斉に舷側へ詰め寄せ涙を溜めて陸地を眺め。
二人の部屋まで歓喜の声が聞こえてくる

「野郎どもっ、着いたぞ!村だ!陸だぁああぁ━━━!!」

「コラ━━━━━━ッ!!片方に集まるなぁあああぁ!!!!!!!!!」

沢の悲鳴まで谺し。
咄嗟に海兵達が反対側の舷側に猛ダッシュ。
再び開陽丸は軋みながら何とか平行を保った


行為の邪魔はされなかったものの、
漸く成し遂げた行為の結果は負傷までして散々である

「…き、君の部下は、開陽を沈没させるつもり…?重いし、痛い…」

「すまん。悪気は無い」

血を流す唇を拭いながら下敷きになった土方の下で
榎本はもう泣いていた。
キスに気を取られ油断していなければ…
いや、それ以前に机にさえ座っていなければ受け身も取れただろう

その時、大鳥が部屋へ様子を見に戻って来た

「今の凄かったなー。二人とも大丈夫だった?アララ、机まで倒れたのか?…、二人して口も切れてるぞ?」

「…机に座ると危ないよね」

「そうだな。危ねぇよ…大鳥さんも気を付ける事ったな」

倒れた机の奥から這い出て来た榎本と土方に、
大鳥は眼を丸くさせるばかりだった


明治元年丁卯十月二十日─…
粉雪混じりの内浦湾に面する森町鷲ノ木浜へ、遂に榎本率いる艦隊が到着

「さて、気を取り直して。船上最後の軍議を始めようか。…ケガするから椅子は持参で」

榎本は胸を張り言い切った。いや、切っているのは唇だが…

こうして翌二十一日早朝より陸軍は上陸開始。
此処から戊辰戦争最後の攻防戦、箱館戦争の賽は地上高く投げられる


 next ≫

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ