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□らしゃめん【1説 黄泉人還し】
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何故だかその日、嫌に磯の香りがしていたように思う。
【1説 黄泉人還し】
灰色だ。
いいや、色がある。
あまりに鮮やかな、緑、茶、黄金、黄土、青、藍――それらが奏でる不協和音。
忌々しい色たちを纏める、湿った空気。
暑かったのだと思う。
わたしは、暑いのが苦手だ。
何かれかまわず膚にべたりと張り付かせる汗も、皮膚の隙間から脳すら侵してゆく熱気も。
だから、夏は苦手だ。
だってわたしは、もっと寒いところにいたのだから、仕方がないというもの。
しかし不思議なことに、その記憶の中で、その不快な熱気を覚えてはいない。
記憶自体はこんなにも鮮明だというのに。
青と藍に移りゆく隔離された空には、大きな入道雲がたっているのだから、きっと暑かった筈なのだ。
しかし、そんな記憶はない。
都合のいいところのみを残して、忘れてしまったのかもしれぬ。
今では分かりようのないことだ。
ただ、何故だか磯の香りが鼻に付いた気がするだけだ。
記憶を混同しているのやもしれない。
何故ならわたしたちが暮らす"家"と呼ばれる場所のそばには、見渡す限りの山岳が広がり、海などかけらも見当たらないからだ。
わたしは思い出す。
むっとした熱気も、風の肌触りも思い出せなかったが、記憶はすぐに像をむすんだ。
手入れされた縁側。
風鈴が静かになびいている。
風はあるらしい。
ちりん、と微かな音が届いた。
遠くで、犬が鳴いている。
隣りの赤子が泣いている。
蝉が、一瞬の生を謳歌している。
そんな在り来たりな世界の端で、わたしはただ、俯いたまま畳の目を数えていた。
真新しい青々としたい草だ。
向かい合った気配が、僅かにみじろいだのが伝わってきた。
かちゃかちゃかちゃ――、
遠くから、牛乳屋の細やかな騒音が聞こえてきた。
わたしは思わず、唾を飲み下した。
搾り出した声は、予想外に渇ききっていた。
「本当に――行くのですか」
彼は、静かに頷いたらしい。
わたしはそれでも顔を上げようとしない。
上げたくない。
上げてしまったらきっと、
"幻想のごとく霧散してしまうかもしれない"
蝉が鳴く。
かちゃかちゃかちゃ――、
「そう、」
溜め息。
蝉も、
蝉も、鳴きやんでしまった。
命の息吹すら白昼夢の体を保つだけだ。
かちゃかちゃかちゃ――、
牛乳屋の音だけが聞こえてくる。
ふと、"こちらに来るのではないか"という不安に駆られた。
来るな、
行ってしまう、
行かせないで、
側に居て、
側に居て、
側に居て、
あの音が、
きっと連れさってしまう。
立ち上がる。
反射的に顔を上げた。
逆光で、表情は見えない。
"イカナイデ、"
かちゃかちゃかちゃ、
かちゃかちゃかちゃ、
かちん。
古ぼけた自転車が、家の前で止められた。